一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

お茶目


 一昨日の目薬噺のつづき。

 目薬商品にはすべからく、小瓶の傷みや紛失を防止するための、ビニール製小袋が付属品としてセット化されているようだ。その袋に収めて、几帳面な人であればさらにパッケージ箱に収めておくだろうから、小瓶は横たえられた姿勢で保管される。立つ必要はない。
 とはいうものの、である。点眼の前後に、ハンケチで眼を拭ったり、フタを机上に置いたりのわずかな間に、瓶を置きたくもなる。この小瓶の形状は不可解だ。少なくとも左右対称姿勢で垂直に立つことは不可能だ。

 ところが、尖底から両翼の腰へ向って伸びる線を底と見立てて置いてみると、小瓶は見事に立つ。かように立てよと、どうやらデザインは云っているらしい。ヒントは、ラベルの製品名が斜め方向に印刷されてあることだ。さように立てたときちょうど水平となる。どうやら、左右対称形で垂直に立つばかりが瓶ではない、とのデザイン主張だ。左右非対称に、いわば首を傾げて立ったほうが、造形に可愛げが生じて魅力的ではないかと云っているわけである。

 そこで思い出すのが、有名なビクターのフォックステリアだ。他界したもとの飼主の声が、エジソンの蓄音機から聞えてきた。不思議そうに、また懐かし気にテリアは聴き入る。わずかに小首を傾げたその姿と表情がいたくけな気で可愛いと視た新しい飼い主フランシス・バラウドは、画家であったところから、その姿を描きとった。一八八九年のことという。
 したがって原画(下)はエジソンによって発明されたまゝの、録音も再生もできる筒形蓄音機だった。のちに企業に売込まれて、トレードマークとして採用されることとなり、流布画(上)では新時代の機器に描き替えられた。
 テリアの名はニッパーといったらしい。忠犬ハチ公のイギリス版といったところか。たしかにこの場合も、ニッパーが首を傾げていなければ、画家が胸打たることも画にすることも、なかったかもしれない。

 そこで改めて目薬の小瓶を立ててみて、じっくり眺めなおしてみた。するともう一つの表情が浮びあがってきた。小首を傾げて、左右非対称。初めはさように見えていたのだが、どうも違うようだ。帽子を小粋に斜めにずらせて、ちょいとお茶目に気取ってみせているのだ。どうも、そうだ。そうとしか見えなくなってきた。
 たとえば、こんなふうにだ。

『リピートしたくなるかぎ針編みの定番小物』(朝日新聞出版)より
無断で切取らせていたゞきました。