一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

困る


 観音さまがベッピンさんでよろしいのか、という問題。

 金剛院さまでは、本堂から裏手の霊園へと辿ると、右手にひときわ高くに視上げるべき観音立像の塚がある。
 手前の左右で、三角形に尖った頂点を上空に向けているのは、彼岸と俗世とを隔てる急峻にして峨々たる山岳だろうか。中央の縦縞状は神秘の瀑布か、それとも悠久の大河だろうか。

 この塚には、多くの無縁仏さまが合祀されてある。当地は街道筋でもなく、色里とも無縁の地だから、投込み寺というわけではない。
 数あるうちには、墓守すべきご子孫が絶えてしまったり、遠方へ移ってしまわれたりして、長年にわたりお詣りの形跡なくご連絡もつかぬ墓所が、どうしても発生してしまう。墓所に立札などして、いく年かご連絡を試みたのちに、いたしかたもなく然るべき法要を経て、観音さまの足下に合祀させていたゞくことになる。
 如来の力にではなく、菩薩の慈悲に委ねるわけだ。

 もとより子孫も後継もない私は、いく年もお待たせすることなく、死んだらまっすぐに、この塚へお邪魔することとなろう。現在の墓所に眠る父母と三名にておすがりが叶うよう、当方の意識あるうちに、ご住職へ願い出ておかねばなるまい。

 金剛院さまには、観音さまがもう一体いらっしゃる。山門の外、往来に面した角地に、塀で画された不動堂がある。怒りの形相をあらわにする不動明王が祀られてあるわけだが、その怒相を中和させるがごとくに、区画内に観音石像が立っていらっしゃる。
道端のお地蔵さまのように、手で触れることも、顔を至近距離にまで寄せて眺めることもできる、庶民に近しい立像である。
 無縁塚でも不動堂前でも、慈悲の心を象徴する観音像は、女性像である。肩丸く、胸豊かに、腰くびれ、臀部は張っている。薄物をまとって、柔和な表情を見せておられる。

 だが菩薩とはもともと、修行中の行者である。正覚を取って(悟りを啓いて)如来となる以前の姿である。本当に見目うるわしき女性だったのだろうか。
 むろん、さようなことはありえない。ガンダーラでは、心身に苛酷な修行に明け暮れする菩薩は、男性像だった。
 仏教が敦煌へ入ったのが一世紀ころ。四百年後には雲崗・大同の石仏絶頂期。やがて仏像たちは、シルクロードを通って唐の長安へと流れ込んできた、新しい西域女性観に出くわす。ふくよかでたっぷりした、柔らかそうで温かそうな女性像が、中国男性を惹きつけた。

小杉一雄『中国美術史 -日本美術の源流』(南雲堂、1986)

 中国人男性たちのあいだに起きた女性観の革命的転換については、恩師小杉一雄先生から教えを受けた。西域渡来の女性観からの影響のほかに、仏像安置の三尊形式についても、師は説かれた。
 如来が教授なら菩薩は大学院生。教授は両脇に助手か院生をお供としている。薬師如来の両脇には日光・月光。釈迦如来の両脇には文殊・普賢。そして阿弥陀如来の両脇には観音・勢至。いずれも菩薩たちが付き従っている。
 中央に座す如来の力・霊験・権威をより強調するためのコントラストとして、脇侍(お供)の菩薩たちは、慈悲や調和を象徴していよいよ女性化していったと説かれた。

 ガンダーラの男性像が中国に入り、西域女性観の影響を受けつゝ東漸、ついには奈良へと到達するというのは、いちおうの概略。が、師の好奇心はそこに留まらない。ガンダーラを訪ねに訪ねて、異様な石仏を見出してこられる。
 腰は男性、肩から胸へはかすかに女性、表情顔つきは女性そのものの微笑み。だが驚くなかれ鼻の下には、サルバトール・ダリそこのけの、はっきりし過ぎた髭を蓄えている。
 師曰く、菩薩の女性化は中国の専売特許ではない。ガンダーラにおいてすでに始まっていた。これが学界においていかなる位置を占める説かを判断する力は、私にはない。

 私も写真版で、そのガンダーラ仏を観た。仏の世界にあって、男女性差などは解消解決されてあるとか。とはいうものの、である。現今の人権とか差別とかの論点に抵触するのではと畏れつゝ申しあげるが、もしも身近にこの菩薩(修行者)がいたと想像すると……困る。