一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

動物園(二十世紀の台詞たち②)【6夜連続】

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 あい変りませず、お古い噺を申しあげます。胡内でございます。

 一九五九年に突如現れまして、アメリカ演劇の旗手と目されるまでになりますエドワード・オールビー。その衝撃的出世作『動物園物語』とは、かようなお芝居でございました。

 ――所はニューヨーク、セントラルパーク。陽射しのよい日曜の昼下り。周囲は緑、遠く背景には摩天楼が見えたりしております。上手(かみて、客席から観て舞台右手)と下手(しもて、同左手)にベンチ。ですのに芝居は終始下手ベンチ付近でのみ進行し、なぜか上手ベンチは最後まで使われません。
 登場人物はたった二人でございますが、その一人、善良で知的な会社員風のピーター(四十代)が、下手ベンチで本を読んでおります。中間色のスラックスとカーディガンに、趣味の好い眼鏡。日曜の散歩途中、仕事からも家族からもペットからも解放されて、独り本を読むのはひそかな愉しみ。人けのほとんどないこゝは、彼お気に入りのベンチのようです。

 ――ところが今日に限って、もう一人の登場人物ジェリー(三十代)が通りかゝりました。癖の強いもじゃもじゃ頭の工場労働者風で、どことなくイライラした様子です。
 「動物園へ行ってきたんだ。あのね、動物園……動・物・園!」
 「えっ、私ですか?」
 「動物園から歩いてきたんだ。北だよね、こっち」
 「えゝっと、たぶん。いや、そうでしょう」
 「向うに見えるのは、五番街?」
 「そう、七十四丁目交差点」(応えながらパイプに煙草を詰めるピーター。)
 「肺ガンが怖いんだ」
 「まぁね」

 ――ピーターは早くやり過して、読書に、いつもの日曜に戻りたい。けれどあからさまに迷惑顔して機嫌をそこねようものなら、この男、危険な匂いがしないでもない。こゝはあたり障りなく、ほどほどに。
 「俺はジェリー。あんたは。仕事は。家族は……」
 矢継ぎばやに繰出される問いかけに、ピーターはムッとしたり、大きなお世話という態度を見せたりいたしますが、ジェリーの絡みつきはなかなか巧みで、徐々にピーターの暮しぶりがあらわになってゆきます。
 教科書出版社の重役で、年収およそ○○ドル。東七十四丁目に妻と二人娘との四人家族。息子が欲しくはあったが、子どもはもう作らない。テレビは二台で、一台は娘たち専用。犬を飼ってみたかったけれども、妻と娘たちの意向で猫一匹とインコ二羽。娘たちそれぞれに一羽ずつで、名前を付けて鳥かごを寝室にまで持込んでいる。

 ――初対面ならではの好奇心と申せばさようでもございましょうが、今の今、どうでもよいことばかり。ウンザリしたピーターが、もうこれ以上はとばかりにダンマリを決込みますと、
 「動物園で俺がなにを視たか、知りたくないかね。もっとも明日になれば新聞に載るだろうし、テレビにも出るだろうけど」
 思わせぶりな誘いで気を惹き、またぞろ脈絡不明の会話の泥沼へと、ピーターを引きずりこんでゆきます。苛立ったり癇癪を起したふりをして見せても、ジェリーはいっこうにひるみません。とうとうピーターのほうが意気消沈してしまいました。
 そこからはジェリーの独壇場。住んでるアパートの住人たちがいかに怪しげか。野良犬までがいかに自分を馬鹿にするか。その犬相手にいかに長きにわたって熾烈な闘いを続けてきたか。その結果として今は……。
 なにからなにまでろくでもない、しかもピーターにとってはなんの興味もない話題ばかり。いゝえそれどころか、観客たちにとりましても、一体全体この男はなにを訴えたがっているのやら、さっぱり見当のつかぬ無駄噺の連続でございます。
 こゝはジェリーを演じる役者の腕の見せどころでございまして、早川書房版『エドワード・オールビー全集』第二巻で申しますと、じつに十一ページにわたる、独り芝居のごとき長台詞でございます。

 ――もうもう降参。せっかくの日曜日が台無しだっ。どうしてこれほど不運な巡り合せになってしまったものか。ピーターは俯いたまゝ、すっかり黙り込んでしまいました。肩で息をしているみたいです。
 そうなったところでジェリーは初めてベンチに近寄り、ピーターの隣りに腰掛けようかという素振りを見せました。「もう少しそっちへズレろ」とばかり、領分を主張してきます。
 駄目です、ピーターもそればかりは譲れません。これ以上、この男のお喋りが長引いてはたまったもんじゃない。一刻も早く、どっかへ消えて欲しい。そもそも日曜の午後、こゝは自分のベンチなのですから。

 ――子どもの陣取り争いめいていたのが、言葉の勢い、やがて口喧嘩の様相となり、しまいには腕づくでもとなってしまいました。ジェリーはふいに、「君にハンデをあげよう」とナイフを取出して、ピーターの前へ投出します。
 冗談じゃない。顔色を変えて固辞するピーターを小突くわビンタするわの挑発。ついに堪忍袋の緒が切れて、思わずナイフを拾いあげたピーター。ってったって、むろん本気で用いようとしたわけじゃありません。身を守り、ジェリーを黙らせようとしただけです。
 でもその一瞬をジェリーは見逃さず、ピーターに向って突進。旧友と感動の再会をしたかのように抱きつきます。ピーターは唖然! ナイフは深ぶかとジェリーに刺さりました。

 ――「あゝ、神さまぁ」ピーターはどうしていゝか判りません。虫の息のジェリーは、人が変ったように、気高い表情と鷹揚な言葉づかいとなります。
 「あなたの知りたいことは、すべて云いました。動物園で何があったか、テレビでなにを観るか。私の顔を観るのですよ。さ、もう行きなさい。人が来るかもしれない。ペテロよ、われ汝によりて憩いを得たり……はゝゝゝ。ピーター、あなたはもう、こゝへは来られません」
 事態を呑込めず茫然としていたピーターでしたが、われに返って走り去ります。
 ジェリーは最後の力を振り絞るようにして、ナイフの柄の指紋を懸命に拭きとり、そして息絶えます。―― 幕。

 いかゞでございますか、お客さま。木戸銭返せの騒ぎになりますよね、これは。
 ジェリーはイエス? ピーターはペテロ? だとしてもでございますよ。
 動物園は天国? それともヘブライの理想郷? それともこの人間世界? だとしてもでございますよ。
 テレビはこの苛酷な汚濁世界? それとも信仰の恩寵? だとしてもでございますよ。
 途中の噺が、あまりにもガラクタに過ぎますもの。

 果せるかな劇評は、箸にも棒にも掛らぬ大駄作だ、いや、かつてない新しいドラマの登場だと、まっぷたつに割れました。ともあれ、アメリカ演劇界の大立者エドワード・オールビーはかつて、かようにデビューいたしたのでございました。
 それにしても三十歳の野心的な新人劇作家。どうしてまた、こんな芝居を考えついたもんでございましょうか。
 ひと晩で何もかもは、お聴きくださる客さまがたにもさぞやご負担。続きのお噂は明晩にということで、今宵はこれにて、ごめんくださいまし。
【二十世紀の台詞たち②】