一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

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サミットストア「プチロースかつカレー」530キロカロリー、321円(税込)

 およそ月一の、ユーチューブ収録日。夕刻、ディレクターさんが機材トランクを提げて来訪くださる日だ。今の私には、大切な仕事のひとつである。

 いつもの月並ゲン担ぎ。仕事に出る日の第一食は「カツ」と名の付くものを食う。ほかに買物もあったのでサミットへ。弁当コーナーで、半量かつカレーを選択。
 豪華ロースかつ弁当や大盛かつカレーも並ぶ。それだけじゃ足りぬなどと、感じた時代もあったが、今の私の手には(口には)余る。「プチ」で十分だ。
 帰宅して、カレーを温めるあいだに、冷蔵庫から常備菜を出して、「いかにも定番」のわが食事を簡単に済ませる。まったくもってウンザリするほど、年がら年中同じようなものを食って、飽きない男だ。

 こんなテレビ番組を観たことがある。食通として知られた阿川弘之さんが、これまた有名な和食板前さんによって眼の前で調理されては次つぎ出てくる一品を賞味しながら、聴き手をお相手にぽつりぽつりと語る。なんとも随筆的というか、まさしく噺の一品料理の連続といった番組だった。
 阿川さんは志賀直哉を師と仰ぐかただから、志賀周辺の白樺派の先人がたとも、当然面識はおありだ。

 「里見弴先生はね、一流の食通でいらっしゃった。そこへゆくとね、武者小路実篤先生というかたは、食べものにまったくこだわりというもののないかただった。味音痴というのではない。味はよぉくお判りになるし、好き嫌いもおありになる。けれどアレ食いたいコレ食いたいじゃないんだ。腹が空いたから、とりあえず満腹になればいい。栄養が足りてればなおいい。献立の取合せだの、付け合せなんかは、眼中にないんだ。お茶漬けにトンカツでも平気なもんさ」
 そこで聴き手からの質問。食通であることは、文学に影響が出ますか?
 「そこが微妙なんだけど、文学の高さは別として、小説を読み較べると、彩りという点では、かすかに違いが出るようだね。色彩の豊かさだね。たゞし飽くまでも、文学の高さとは、別ですよ」

 「文学の高さ」と念を押すように繰返された。強調なさったものか、誤解を避けようとなさったものか。たしかに微妙なおっしゃりようだ。
 大正時代を活躍期とした綺羅星のごとき作家群中にあっても、里見弴は巧みなほうから何番目というような、屈指の小説名人である。が、文学の高さでは、武者小路実篤に及ばないと、阿川さんはおっしゃりたいのだろうか。
 それとも言葉どおりに、作品の出来栄えと高さとは別の物差しを当てるべき、いわば別次元の問題だと、おっしゃりたいのだろうか。
 突き止めようとすれば、阿川作品をかなり丁寧に調べねばならなくなる。また里見弴作品をかなり丁寧に吟味しなければならなくなる。小さな穴がふたつ口を開けていて、そこへメスを突っこんで切り裂き、大きく口を拡げて見せることができれば、阿川弘之論、里見弴論と、作家論が二篇書ける。
 作家論とは元来さように手間のかゝるものだったのだが、手間がかゝり過ぎるのが禍してか、ついぞ視かけなくなった。口も開いてないところへ、めくら滅法マサカリ振りおろして議論して見せるようなのを、作家論とは称ばない。

 

 さて収録だが、例月どおり順調に(嘘。圧倒的量の無駄噺・雑談を挟みつゝノロノロと)進行。途中間食や珈琲ブレイクの連続。
 「君、甘食って、ご存じ?」
 案の定、ディレクター氏はご存じなかった。時代である。もしやさようではないかと思って、ファミマでたまたま眼に着いたので、買っておいたのだった。
 「アンパンやクリームパンが十円のとき、一個五円だったんです。餅菓子の世界になにも入ってない素甘(すあま)があるように、菓子パンの世界に甘食があったんですよ」
 ひとしきり甘食談義、菓子パン・コッペパン談義、さらには給食談義。収録は停滞。

 ところで、私が買った甘食の袋には「ファミマのエコ割」と印刷された二十円割引きのシールが貼ってあった。販売期限が翌日に迫っている商品ということらしい。
 かねがね思っていることだが、期限当日だろうが、過ぎていようが、買いたい商品であれば、私は買う。割引きはありがたいが、そちらの事情。私にとっては大きなお世話。ましてや「エコ」なんぞと、高潔めかした意義を付加などなさらないでいたゞきたい。その高潔主張も宣伝のうちとおっしゃるなら、いっそのこと、「期限接近」プラス「エコロジー尊重」のダブル割引きとして、もう二十円、お安くしてください。お願いいたします。