一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

猛暑日


 暑い一日だった。

 久しぶりで電車に乗る。疫病禍の二年あまり、パスモの残高がめっきり減らなくなった。数駅先の雪華堂さんまで。お使いもの、というほどでもないが、小さな手土産をふた口。紐掛けしていたゞいているあいだに、自分への褒美気分で、単品陳列の棚を物色。お店のザル(スーパーのカゴに相当)に、さていくつ採ろうか。
 普通に考えれば三個だ。年寄りの自然、というばかりではない。食べ比べて、次回来店のさいには、もっとも自分に合った一個を継続して、ほか二個を他の商品に変える。これを繰返して、自分好みを絞りこんでゆく。常道だ。食べ比べの精度を維持するためには、三個がせいぜいだ。

 「昔みそまんじゅう」は基本だから、まず抑える。次は「雪最中」。
 和菓子は詰まるところ、餡子をいたゞくものだ。餡子を手づかみでは食いにくい。工夫が要る。寒天で固めれば羊かんとなり、餅で包めば大福となり、水に溶いた粉で包んで蒸せば饅頭となる。いろいろおっしゃっても、要するに餡子を食う手段である。じかに餡子を食う感じを味わえるのは、きんつばと最中だと思っている。で、今日も最中は外さずにおく。
 三個めは餡変り。うぐいす餡をパイ生地風の皮に包んた焼菓子「巴衣納言うぐいす」。と決めかけたところで、棚の隅っこに眼が行った。小さな菓子で見映えもよろしいとは申しかねる「やきたて林檎」。洋菓子分野においてはアップルパイ好きを自認するワガハイが、これを視逃してもよろしいものだろうか。しかし今日はそのテーマで入店してはおらない。餡子に忠実が主題である。しかし…。ではあるがしかし…。ザルを片手に考えは二転三転。ついに大原則の検討にまで遡り、自分用を四個に変更した。
 ふた箱に包装・紐掛けしてくださった店員さんが、長らくお待たせして申しわけありませんと、声掛けしてくださったが、とんでもない。時間が足りませんでしたよ。

 食事も摂らずに飛出してきていたし、久しぶりの外出でもあるから、今日は贅沢をしようと、珈琲館にて、アイス珈琲とシナモントースト。
 なんで俺のインスタント珈琲と、これほどまでに味が違うのだろうか。疑問ではない。答えは知っている。自分が毎日飲んでいるのは珈琲ではなく、珈琲商品を我流で薄めて冷ましたナニガシかの怪しげ飲料である。仕様説明をよく読めば、ネスカフェさんだってキイコーヒーさんだって、けっしてお奨めなさっちゃいない方法で、私は飲んでいるに相違ないのだ。ま、よろしいとしておこう。

 シナモンの香り、というものが好きだ。菓子パン・惣菜パンを選ぶさいにも、シナモンロールに手が伸びる。基本の塩バター味に、シナモンシュガーをまぶしただけの簡素な味だが、いつも美味い。
 昔、多国籍ホステスやダンサーを取り揃えたゲイ・クラブが六本木にあって、インド人のホステスさんを贔屓にしていた時期がある。本当にインド人か、じつはパキスタン人、ネパール人か、どうでもよいことなので、知らなかった。今想い返すと、容貌も声も気立ても可愛くはあったが、なんといっても彼女の体臭が魅惑的だった。化粧品か香水にシナモン系の香油成分が含有されていたものだろうか。自室でも、さように神秘的な香を焚いていた。成分について、よく訊いておくべきだったと、心残りだ。

 珈琲館のバニラ味ホイップクリームも 柔らかくて好きだ。シナモン味のトーストに、ジャムかマーマレードのようにたっぷり乗せて食べるのだが、美味い。ウィンナ珈琲にも、これがふんだんに浮んでいる。
 普段使い野菜のメンバー表に、レタスは入っていない。レタスを買って使い切ることに心砕くくらいなら、キャベツをひと玉買ったほうが、活用範囲がはるかに広いと思っている。同じ理由で、白菜すら遠慮しているくらいだ。
 だから外食のさいにレタスと出逢うと、歓んで食う。珈琲館メニューでは廉価軽食の部類に属するだろうシナモントーストのプレートにおいて、付け合せのレタスをこれほど感慨深く食べている客も、そうそうはあるまいと考えると、なんだかおかしい。

 店の隅に、二方が壁、二方が簡易アクリル壁でホールと隔てられた、喫煙場所が設けられている。面積はひと坪。疫病禍に見舞われてからは「定員三名」と貼紙されている。ひと坪だろうが三名だろうが、かようなスペースが店内にあるというだけで、喫煙者にとっては大助かりだ。
 とうに慣れっこになってしまった情なさを押殺して、一時間ほどの在店時間に二度も、ひと坪空間へ赴いた。腹いせではなく、むしろ感謝をこめて、シャッターを押した。