一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

居合せ


 齢若き友人のお一人ながしろ君が、心身の健康にまことによろしきものをお贈りくださった。日ごろ私がスーパーで贖う品物よりは、かなり上等な品のようだ。日より・気分ともに最適のおりを選んで、開封させていただくつもりだ。

 ながしろ君は畏るべき有能の士で、地金は文筆家なのだろうが、出版編集者・コピー―ライター・イラストレーター・デザイナーと、印刷物周辺の仕事であればなんでもこなしてしまうらしい。芝居台本の手直しなんぞも、器用にやってしまうと見える。
 加えて現代の手仕事師だ。ウェブデザイナー・ホームページ管理請負いなどというお仕事もあるらしい。

 私にとっては、パソコンの駆け込み寺である。私のパソコンはしばしば方向不覚のジャングルに踏み迷う。基礎がまったく身についてないから、うっかり間違ったクリックをしてしまって、視たことのない画面に到達してしまったりすると、元に戻れない。
 すぐに電源を切ってジャックも抜いて、ふたたび立上げれば、まだしも症状は軽く済んだのかもしれぬところを、これしきのこと、ご多忙のながしろ君のお手を煩わせずに、自力でなんとかせねばと、コレかなドレかなと彷徨っているうちに、グーグル本社による英文の解説画面に到達してしまって、脱け出られなくなってしまう。
 結氷した海の中道を往くがごとく、日常通い慣れた一筋道から一歩でも外れることには危険がともなうのだ。

 二十年以上の付合いになるだろうが、ながしろ君が確定申告や履歴書やプロフィール表で、ご本職をなに業と名乗っておられるかは、いまだに存じあげない。
 さような彼が傲然と、私の正当な後継者だとおっしゃったことがあった。面映ゆきかぎりで、即座に否定させていたゞいたが、考え込まされもした。
 印刷物などで紹介されるさいには、私は文芸批評家となっている。たしかに五十年以上、おりおり文学について書いてきた。が、文界に風雲巻起す一説を投じたこともないし、話題の新刊の著者となったこともない。全国新聞の文化面で文芸時評を担当したこともないし、文学全集の編集委員に名をつらねた経験もない。
 当然だ。デビューしていないのだから。「新人力作」なんぞという冠を付されて文芸雑誌に作品が掲載されたこともないし、新人文学賞を受賞したこともない。理由ははっきりしている。応募したことがないからだ。

 五十歳過ぎまでは、零細出版社社員でもあった。四十八歳以降は大学の講師でもあった。が、いずれの職も、単独で暮しを成り立たせることは不可能だった。正業ならぬ半端仕事である。
 よって小銭稼ぎの臨時アルバイトには、ちょくちょく手を染めた。書くだけではない。喋る仕事も、読む仕事もあった。自嘲的に職業「読み屋」と名乗った時期すらあった。さような半端仕事を数こなしているうちに、ちょっと相談に乗るだの居合せるだのという仕事まで舞込んだ。
 編集部で企画が進行中。まだ著名先生に正式依頼できる段階以前の、水面下での摸索や練り上げ。そんなお膳立て段階に、ちょいと顔貸してくれとのご指名で、なんとなく「居合せる」のが仕事だった。それでも大出版社がくださる「お車代ていど」は、私の暮しにとっては、そこそこの金額だった。

 怪我の功名と申すべきか瓢箪から駒と申すべきか、この齢になってみると「居合せ業」なる職業名、あんがい捨てたもんでもないという気がしてきている。
 もはや「昭和文学」も「近代文学」も、古典芸能の一分野となった。新文学の肥しとなることはあっても、それ自体が創作に直結することはありえそうもない。が、能楽堂文楽座に、見栄でも義理でもミーハーの物見遊山でもなく、心からの愉しみとして出入りする少数の愛好家がいらっしゃるように、「昭和文学」も「明治大正文学」も「近代文学」も、ひと握りの素性好い読者に愛好され続けることだろう。なかの昭和文学の後半期に、私は居合せた。
 なるほど、たしかに私は、さような者である。嘘ではない。

 ところでつい先刻、新人文学賞に「応募したことがない」としたのは、正確には嘘だ。一生涯応募経験がないのも如何かという気がふいに起きて、すべての職が定年となった記念に、昨年ある文芸雑誌の新人賞に投稿してみた。しょせんは旧ネタを按配しただけで、なんの新味もない原稿だから、褒められるとははなから思っちゃいない。はたせるかな、第一次選考も通らなかった。
 ながしろ君、どうもご馳走さま。開封の時期を間違えないようにいたします。