健康相談や集会場や老人娯楽など、多目的に随時使い回す区民サービス施設だ。屋上では貯水槽やテレビアンテナと並んで、古風なスピーカーが東西南北に首を伸ばしている。
只今では十八時、冬時間の季節には十七時になると、「夕焼け小焼け」チャイムが奏でられる。音程は厳密ではない。
台風接近ともなると、「たゞ今、○○警報が発令されました。云々」との放送が流れる。むろんテープだ。ライブでないことが、これほどあからさまなテープも珍しかろう。
防災の日、あるいは防災週間には、「これはテストです。警報ではありません」と、くどくど前置きした「警報」が流れる。
戦時の空襲警報は、記録映像や映画で知るばかり。実際に眼にし耳にしたことはない。どんな心持で先輩がたは聴いたもんだろうか。
半径なんキロメートルほどの近隣へ届かせようとの放送なのだろうか。取材も検証も試みたことはないが、そうとうの大音量である。
けっこうなこととは思う。が、隣家の住人としては、かなりうるさい。なさるのであれば、質を向上させては如何か。
意図はごもっとも。とりあえずの試みはよろしかろう。だがその後十年二十年と、音程も、あからさまテープ声も、改良なしというのは解せない。スピーカーからコードを伝わったずぅーっと向うでは、茶色いオープンリールが回っているんでは、あるまいね。
それでもほゞ毎日、トイレの窓からか物干しからか、眺める。拙宅から真北の方向にあたるが、背景に高層ビルも中層ビルもないからだ。東は池袋だから申すに及ばす、西は練馬から中野へかけて、南はなんとわが町の駅方向にも、信じがたいほどに建物が密集し、彼方は新宿方面である。
空を眺めようとすれば、真上を仰ぐか、北を眺めるしかない。ま、空を視上げさえすればよろしいってわけじゃないけれども。
アルフレッド・シスレー(1839‐1899)は、空の妖しさに胸騒ぎがしてならなかった画家のように思う。同時代人として交流のあったモネ・ピサロ・ルノワールほか、だれと比べても、シスレーの地平線は低い。たとえばピサロの地平線ははるかに高い。大地と、地上の風景と、そこに暮す人びとへの関心が深い。シスレーとは対照的だ。
またシスレーは、モネと影響しあうように、水面に反射する陽光をも、ことのほか丹念に描いてはいるが、特色はやはり空にあったと感じる。
両親はともに、フランス在住のイギリス人。父親の商売の修業にイギリスへ送り出されたものの、そっちの勉強には身が入らず、ターナーやコンスタブルにばかり惹かれていたという。
帰国後、父に謝って、画家として生きることを許してもらうが、そのころ関心を寄せた先輩画家はコローだったというから、ナルホドネである。木洩れ陽を身上とする外光派=バルビゾン派だ。シスレーにも、枝葉を透かして視る空は多い。
父の脛がかじれたあいだはよかったが、事業が左前になって父が他界してからは、ひどい貧乏暮しだった。田舎の風景だけを、さほど大きくない画面に描き続けた。
あれこれ眼移りして判断に迷った場合、もし一枚いたゞけるとなったら、どれを所望しようかと、考えることにしている。この雪景色をいたゞくことにする。
だいぶ降った雪がようやく止んだものの、まだ油断できぬ不穏な空模様だ。とある紳士が、そこらにあった棒切れを滑り止めの杖代りにして、前を行った人らが踏み分けていった跡を、用心深く歩いてゆく。彼にはきっと、行かねばならぬ事情があるのだ。
「こんなお足元の悪いなか、どちらまで?」
挨拶かたがた、訊ねてみたい気がする。
画面の右下隅にサインがあるのだが、溶けかゝったものか風のいたずらか、薄い雪から土か岩かがまだらに覗いたように見えるのも、気に入っている。