一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

実弾


 またもありがたき到来品。米どころと称される郷里にふさわしい、農産食品だ。余ることなどこれっぽっちもない、わが夏を乗切るための核心糧秣。申すなれば実弾だ。

 従弟の建夫君は、だれもが口を揃える正直で率直な人柄だった。天然か芸かはご家族にしか見分けがつかぬユーモア話術の男で、周囲に笑いが絶えることのない人だった。
 「兄貴は頭良いから歯医者になった。俺は頭悪いから職人になるわ」
 歯科技工士となった。兄が県庁所在市へ出て開業医となったため、建夫君は郷里の市に残って、両親の隣家に住んだ。奥さまと二人三脚で、ご両親(私には伯父と義伯母)を最期まで看取った。伯父は病没だったが、義伯母は認知症が進んで寝たきり生活の長い晩年を閲したから、介護の日々はさぞかし容易ではなかったことだろう。

 「昨日、ちょっと山へ行ったから」
 母に宛てて年に何度か荷物が届いた。フキノトウやタラノ芽だったり、ウドだったり、茗荷だったりした。新聞紙に包んでボール箱に詰め、ガムテープでぐるぐる巻きにしただけの、簡易包装だった。その箱たるや、ワイシャツの箱だったり、砂糖や乾物の箱だったり、いかにも手近にあり合せの箱という趣だった。当方へ着くまでに水分が染み出して、模様になっていた箱もあった。
 その素朴さを、母はことのほか愛した。母からも礼として、肌着や靴下だの、ちょいとした雑貨や消耗品だのを送っていた。高価なものでも気取ったものでもない。暮しのなかでけっして無駄にならぬ、ありふれたものが工夫された。編み物を特技としていた母は、毛糸衣類をなにか編んで送ったりもした。

 わが母他界後は私が、山菜や茗荷を頂戴した。八百屋に並ぶものとは断然違って、大きいの小さいの、もう花芽が出かゝってるの、いろいろあったが、ありがたかった。野趣とはかようなものと歓んだ。
 哀しいかな、私にはお返しの品を工夫する知恵がなかった。百貨店からメイカーによるギフト商品を送ることしかできず、気が引けた。

 建夫君は早逝した。奥さまと、まだお若かったご長男・ご長女が残された。遠方に住む身ではあり、社会的な力も見識も持合せぬ身でもあれば、なんのお力にもなれぬのは承知だが、それでも、ご一家にはお健やかであれかしとの想いは強かった。
 それからもう、なん年も経つ。不思議だ。系図阿弥陀くじのごとくに筆先で辿れば、このご一家より距離の近い親戚はほかにもありそうだ。だがお付合いの遠近は、系図上の遠近ではない。
 私には兄弟がないが、多人数兄弟で育った友人から教えられたところによると、長じて後も親しく往来する兄弟と、日常の付合いはほとんど絶えたようになる兄弟とが、あるのが普通だという。なるほど、それが人情の自然、というものなのだろう。

 というわけでこの夏も、早く逝った従弟の奥さまと、お子たちの差出人連名で、実弾が届いた。いたゞきます。