一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

牛乳


 こゝ二週間ほど、牛乳を飲む暮しを復活させている。かつては常備飲料のひとつだった。が、常備飲料の種類が増えすぎて、いつのころからかランキング外に下っていた。

 陽気からくる気怠さゆえか、珈琲にいさゝか飽きた。飲むヨーグルト的な乳酸飲料も、ちょいと待てという気になった。カルピスは飽きない。麦茶は四季をとおして不動の位置を占めている。ほかには紅茶を沸かして粗熱を取ってから冷蔵庫で冷している。
 炭酸飲料には、もとからさほどの執着がない。コーラもサイダーも好きではあるが、毎日飲みたいとは思わない。電解質飲料というのか、スポーツドリンク類も、人さまがおっしゃるほどありがたいとは思わない。
 つまりは手を替え品を替えては、こまめな水分補給を心がけているわけだ。で、陽気の加減か、珈琲とヨーグルト飲料に対して、足音の大きすぎるランナーみたいな感じを覚えたにすぎない。秋になれば、また珈琲をがぶ飲みするようになるのだろう。

 スーパーにもコンビニにも、多種銘柄の牛乳が並んでいる。乳飲料や加工乳といった、私にはよく理解できぬ商品も、数多く並んでいる。いちおう成分比率だの乳脂肪分含有量だのを眺めはするが、だからなんだという気もする。だいぶ以前に手を出してみたこともあるが、あまり感心しなかった記憶がある。
 結局は、「牛乳」と銘打ったうちの、最安値商品を買っている。メイカーによる特色があることは知っている。牛乳の美味さとはなにかについての、主張があることも知っている。が、酪農農家さんやメイカーの競争努力によって、どれも水準に達した味だ。
 お前は本当に美味い牛乳を知らぬからだと、どこかから声が聞えてきそうだ。冗談じゃない。なにを隠そう、こう見えて牛乳にはウルサイのだ。珈琲なんぞより、それどころかウッカリすると酒よりも。

 この町へ引越してきたのは昭和二十九年だったが、ほどなく両親は、牛乳をとってくれた。勝手口の脇に屋根型のフタが付いた牛乳箱が設置されたときの、眩しいような晴れがましいような気分は、忘れられない。牛乳店さんの配達員が、毎日一本づづ入れていってくれた。拙宅にはまだ、テレビも電気冷蔵庫も電気洗濯機もない時分である。
 牛乳瓶にはボール紙のフタがしてあるが、それを開ける専用の、針の短い千枚通しがあった。柄には牛乳メイカーのロゴが入っていた記憶があるから、おそらくは牛乳店さんからのサービス品だったのだろう。
 「僕がやるぅー」
 ねだって、私はフタを開けたがった。フタの中央にブスリと穴を開けてしまうのではなく、縁から用心深く開けたかったからだ。「飛ばしメン」と称ばれた小さな丸メン(円型のメンコ)とすべく、集めていた。

 一本の牛乳の半分を、母は私に飲ませてくれた。数年して、父の仕事が安定してきたころ、配達されてくる牛乳は二本に増えた。二本の牛乳を、母監視のもと三等分するには、少々知恵が要った。ひとつは父の分として取り置かれた。
 半世紀後、不摂生と乱脈生活のばちが当って大病することにはなったが、もとの骨格と臓器はいたって頑丈に育ったのも、なん分の一かは、両親が毎日牛乳を飲ませてくれたおかげと、本気で思っている。

 牛乳に飽きたり、嫌いになったりしたことは、一度もない。現役社会人時分は、地方出張すればかならず、ご当地牛乳を飲んでみた。牧場直送ナマ牛乳なるものも飲んだ。ジャージー種の牛乳も飲んだ。むろん山羊の乳も飲んだ。
 牛乳の味を知っていると、自分では思っている。今東京でお眼にかゝる牛乳は、最高とは申さぬまでも、どれも水準に達していると感じている。アレが美味いのコレが上だのといったしたり顔に遭遇すると、
 「そういうもんですかぁ、なるほどねぇ」
 口先だけで応えることにしている。

 年寄りはかようなものを食っとけばよろしい、と云わむばかり。年がら年中月並にして、安全かつ無難な食生活。それに食後には、牛乳がある。