一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

写実

坂本繁二郎(1882‐1969)
自像(1923~30年)カンヴァス油彩 52.8×45.2㎝〈部分〉

 猛暑のさなかに、じっくり眺めかえす画家として、坂本繁二郎は適切でないとは思うのだが。

 岸田劉生梅原龍三郎も、観るたびに偉大だとは感じるが、この季節には暑苦しくていけない。佐伯祐三もいけない。
 安井曾太郎の聡明な画面の力で、頭のなかをスッキリ整理させてもらいたい。熊谷守一の功徳で、我もまた取るに足らぬ小さき命のひとつと気づきなおして、ほのぼのとさせてもらいたい。松本竣介もよろしい。
 坂本繁二郎が夏向きでないのは承知のうえで、必要に駆られて久びさにペラペラ眺めた。近ぢかお若いかたがたに向けて、文学用の文章上達のためのヒント、といったお喋りをさせていたゞくことになっていて、日ごろ忘れ果てて過しているようなことどもを、あれこれ思い出そうとしてみたのだった。

坂本繁二郎画談』(第一書房、1962)二宮冬鳥監修、杉森 麟 編著

 冒頭「抽象と具象」から語り始めるが、要約すれば以下。抽象・具象は問題ではない。写実が基礎にあってこそ、抽象が活きる。写実なき抽象画は図案に過ぎない。絵具の美しさや構図の妙だけでは、時を超えられるわけがない。また写実なき具象画にいたっては、写真に遠く及ばない。
 ごもっともだ。文学においても、「写生」とか「実相観入」と称されたが、もっとも大声で提唱した斎藤茂吉とそれ以降の人びととのあいだで、含意が微妙にズレることもあって、万人に共有される概念とはなりえていない憾みがある。

 展覧会の感想を聴き手に語った片言隻句から、画伯の真意を探っておこう。
(ルオーは)写実の一面をもっていてよいのですが、どうかすると方法が目だつ。
自然派)ミレーは傑作。コローが、やはりよい。
ドラクロア自然派のように、理屈なくうれしくなるところがない。腕力の割に、食いつきにくいところがある。
(ブラック)ずいぶん彷徨している。なにかを望んで動いてるのと、何もなくて、ふらふらしているのとがある。
マチス)主観的なうまさはあるが、到達点ということになると、問題がある。
ゴッホ・ゴーガン)ちゃんと自分というものが生きているから、安心して観られる。
ルノアール)情緒的ですが、構成でもきまりきっている。描写力など整然としているが、それがまた短所でもある。
(クレー)空をとんだりした変なものがあるが、あれは写実です。実感があるでしょう。そこが非常にものをいうのです。
シャガール)日本式の色ですね。洋画からいえばきれいではあるが、調子が変てこで、おしつけがましい。
(ルソー)絵の発揮している感じは弱気、謙虚であって、しかも自然をつかんでいる。
レンブラント)それほど偉いんでしょうかね。
レオナルド・ダ・ヴィンチ)とにかく、これは化け物のように偉い。輪廓が大きいですから……。ああなるともう、普通にはわからぬ世界があるんでしょう。

箱(1959年)カンヴァス油彩 45.2×52.9 ㎝

 例によって、一点拝領を許されたらという噺なのだが、ひじょうに迷う。坂本となれば、そりゃあ馬だろう。いかにもさようだ。静物から選ぶなら、いく作かある能面のどれかだろう。なるほど。晩年の心境というなら月のどれかだろう。反論はできない。
 が、「煉瓦と瓦」「毛糸」「植木鉢」「書籍」「鋏」など、ふと眼に停まった身の回りの小物たちを、どこまでも凝視していった諸作に、妙に心惹かれる。
 この方面には、若いころから眼を着けていた一作があって、今回も迷いに迷ったあげく、結局は「箱」に戻ることとした。
 写実をきわめてこそ、芸術的抽象が始まる。道理をこれほど端的に示した美しさは、そうそうあるまいと、溜息がでる。