一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

友人



 二年間中止が続いてきた地元神社の祭礼が、今年は実施できるかどうか。最終決定は、まだ告示されていない。

 神社と、区と(都か?)、地元商店街のお偉いさんがたとのあいだでは、議論が煮詰ってきているにちがいない。情報の一部は、古手の商店主さんがたの耳に入っていることだろう。が、下じも住民には、まだ周知されていない。
 地元神社は江戸時代中期から、近隣町の神社の本社と位置づけられていて、氏子も広範囲にいらっしゃり、祭礼ともなれば各町の神輿がメインストリートを行列して練り進む。境内と駅前広場と神社脇の往来には、香具師さんがたによる飲食店や遊興店がビッシリ建ち並び、ラッシュアワーさながら押すな押すなの人出となる。

 ひと辻外れた商店街では、商店街有志によるテントも張られ、銀行・信金やスーパーなど町に出店している企業も、なんらかの協力をする。警察・消防にだって人員手配や配置など、陰へ回ってたいへんなご苦労がおありのはずだ。
 祭の準備は、一朝一夕にはならぬ。祭礼は九月第二週末と決っているから、今年は十一日・十二日だろう。もはや日がない。しかるべき筋には、祭礼実施か中止かの協議のもようは把握されてあるのだろう。結論も出ているのかもしれない。知らぬは平民ばかりなりということかもしれない。
 わがフランチャイズ居酒屋「祭や」のマスター、ヨッシーこと吉田さんも、老齢化著しい商店主がたを助ける働き盛り経営者のひとりとして、商店街企画の助っ人に出る。が、今年はまだ、具体的な規格案が降りてきていないという。

 「祭や」は疫病下、長らく休業を余儀なくされた。食事をかねた宵の口の客と、他で下地を作ってきてこゝで〆をする客との、ふた山で営業してきた。夜更けや深夜をもぎ取られたのでは立ち行かない。
 ヨッシーは体力・気力、それにコミュニケーション能力に長けたなかなかの苦労人で、この間も店を手放すことなく、派遣社員として自立してきた。百貨店で健康器具の販売員だったときには、カタログや仕様書がボロボロになるまで勉強して、メイカーからやってきた社員よりも、はるかに多く売上げた。不動産の設備会社で営業員だったときには、新宿あたりの酒場を隈なく訪問して歩いて、システム契約数を増やした。

 短パン T シャツ姿意外に、ワイシャツ・ネクタイ姿のヨッシーがいて、その彼には、私はまだお眼にかゝったことがない。で、そちらで十分自活できるから、店の権利を手放してしまえば、暮しは楽になるのである。が、店は彼の生甲斐である。目先の損得に換えられるものではないのだろう。
 休業期間中も再開を目処に、造作・内装・備品に数かずの手を入れ続けてきた。彼の場合「手を入れる」とは、業者に依頼することではない。電気・ガス以外のことは、大工仕事も含めて、すべて自分で手間をかける。ピカソの画のごとく、変容つねなき店なのだ。

 さて規制も解けて、営業再開のはこびとはなったものの、勤め人として手が切れない。中軸販売員のひとりとして、部下をもつまでになってしまっている。会社からは引留めらるし、アタクシ派遣ですからと、さっさと足を洗うわけにもゆかない事情となってしまった。
 結果として、とりあえずの肩慣らしとして、毎週土曜日のみ開店という変則営業で再開した。

 再開「祭や」には、有力な助っ人が二人もある。ヨッシーがホールで自在に動けるように厨房を引受けるパートのチイママと、若(そのご子息)だ。
 他の地で夏祭りかご縁日があったらしく、若はゴムヨーヨーをたくさん所持しておられた。わが子供時代は、先端に鉤がついた糸をもって、水槽に浮んだゴムヨーヨーを一個々々釣上げたものだったが、今はまとめて袋詰めを買えるらしい。自分で膨らませて、適量の水を入れ、お手製の品を作りあげておられる。
 この客は、今後も当店に出入りしてよろしい。苦しうない。幸いにして、さようおぼし召しあらば、若みずからのお手から、一個頂戴できるのである。私も、その僥倖に浴するを得た。

 ところで、土曜日である。宵八時ともなれば、ドッキリ・グランプリの放送である。店内の画面は、自宅テレビよりはるかに巨きいのである。
 ジジイの相手など、している場合ではないのである。
 目下のところ、もっとも齢の離れた、わが友人である。