一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

巡りめぐって


 公園の花壇ではヒマワリが、早くも花弁を散らし始めている。なかには黄色い花弁をすべて失い、中央の雄蕊群だけの姿となって、戦前のマイクロホンのように立っている株をも視かける。
 雄蕊群はどれも、まだら模様をなしている。ほんのわずかな陽当りや風通しの違いだろうか、役割を了えたように枯色を晒す蕊と、先端に色を残して今からでもひと仕事できそうな蕊とが、不規則にまだら状になっているのだ。

 『季刊文科』89号(秋季号)が発行のはこびとなったらしい。まだ実物を手にはしていないが、twitter に発行元の鳥影社さんによる告知が投稿され、何人かの知人がたがリツイートなさっている。私の名もタグ付けしてくださっているとかで、日ごろとんと情報に疎い私の画面にまで、告知や諸家によるリツイートのもようが届いた。
 見開き目次の写真付きだ。私の名も並んでいる。特集に関する課題を賜って、十枚ほどの原稿をお渡ししておいた。諸家の尻尾に連なって、枯木も山の、といったところか。編集委員のお一人で、どうやら今回の特集の発案者でもあるらしい佐藤洋二郎さんのお引廻しによったのだろう。だって、現在の編集部に存じ寄りのかたはいらっしゃらないもの。
 ずっと以前のことだ。日本近代文学と仏教との関連を調べておられた文芸批評家の大河内昭爾さんが同誌編集長をなさっておられ、ありがたいお声を掛けてくださったことがあったが、当方私生活が悪戦苦闘中で、務めを果せぬままに歳月が経った。

 ずらり並んだ諸家のお名前を眼にして、オヤオヤと、溜息に近い感想を禁じえなかった。特集企画以外までをも含めて、存じあげるお名前があまりに多いのだ。
 柱となる佐藤さんのほかに、楊逸さん、谷村順一さんは、一年半前まで非常勤講師としてお世話になっていた大学学部学科の専任教員でいらっしゃるし、元『三田文学』編集長の加藤宗哉さんは、そこでの非常勤講師仲間だ。文芸批評家の川村湊さん、小説家の藤沢周さんは、紹介されたのがいつだったか憶えがないほど古く、日ごろのお付合いは皆無だが、酒場でカウンター並びにでもなれば会釈くらいはする間柄だ。
 そこまでなら、溜息は出ない。先方が有名人で私が無名というだけのことで、ともに文学の現場近くに身を置いてきた同士だ。なにかの拍子で、目次に名を連ねることがあっても不思議ではない。

 斎藤昇さんが、ワシントン・アーヴィングについての評論を寄せておられる。アメリカ文学のご研究家で、立正大学英米文学科教授。近年は学長職を拝命されたとの噂を耳にした。
 知合ったとき斎藤さんは、さて専任講師だったか准教授となられていたか。今では山をなすご業績がおありのことだろうが、私はその第一ご著書、処女出版物の担当編集者である。当時から学者臭さの微塵もない、むしろ体育会系の匂いすらする好青年で、後輩の大学院生たちからも、一番慕われる兄貴だった。
 先輩教授がたから振られる無理難題にも、よく応えられ、学会活動でも地味で報われぬご苦労に身を粉にして、めげなかった。出版社社員いわば出入り業者の一人に過ぎなかった私も、ついつい見かねてお手伝いしたものだった。
 アーヴィングはそのころからの、斎藤さんのご研究の中心である。私が担当したご著書も、アーヴィングを柱とする初期アメリカ文学に関するご研究だった。

 大鐘稔彦さんが自叙伝的な創作を連載しておられる。京都大学医学部出身の外科ドクターにして作家だ。私は医療現場の逸話を集めたエッセイ集と健康法のハウツー本、それに長篇小説の担当編集者だった。小説は、スペインから侵攻してきたエルナン・コルテスとの死闘を繰広げながら、アステカ帝国が滅亡してゆく壮大な活劇ロマンで、上下二巻組の大冊だった。
 文章をお書きになるのは学生時代からのご趣味で、ご多忙の手術医となられてからも、なにかしら書くことを好まれた。酒は一滴もお飲みにならず、車も運転なさらず、ゴルフにも興味を示されない。医学(ことに手術)と文章を書くことだけを愉しみとされた。申すならば、文章を書くことを覚えた、男の大門未知子だ。
 勤務病院以外に、曜日指定で他病院への出向を掛持ちするほどのご多忙ぶりだったのに、尊敬する教授の手術を見学するとおっしゃっては、女子医大等へ頻繁に足を運ばれた。また粗悪なちり紙が大量に買い貯められていて、束ごとバケツの水にザブンと浸して取りだす。それを破けぬように一枚々々剥がしてゆく。癌細胞によって癒着した臓器や腹膜を剥離してゆく技術は、不断かつ永遠にトレーニングし続けねばならぬと、おっしゃっていた。
 当時お住まいだった百合ヶ丘へ打合せにお伺いしたさい、
 「多岐さん、ボクね、焼鳥屋だって知ってるんですよ。教えてあげましょうか?」
 私は返答に窮した。

 五十歳代に入って私は、零細出版とホマチ文筆と大学非常勤講師との三足の草鞋は、手が(足が)回らなくなった。癌再発の母と認知症進行の父とを、最期まで自宅で看ねばならぬと決断したからだ。いっそ後腐れなきようにと、どなたにも予告もご挨拶もせず、出版から足を洗った。会社よりも私と組みたいと、おっしゃってくださる著者も多少はあったかもしれぬが、なによりも著者にとってそれは得策ではないと判断して、夜逃げでもするように退職した。
 時は巡りめぐって今、『季刊文科』がご縁になって、斎藤昇教授や大鐘稔彦先生とお会いすることにでもなったら、あのときは突然に申しわけございませんでしたと、まずもってお詫び申さねばならない。