一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

高床式

ヨックモック、モロゾフ、ブルボン、出てくるわ出てくるわ……。

 私の暮しでは、缶入りの菓子に出逢うことなど、めったにない。箱とフタの継目に貼り回したセロハンテープを、ぐるり一周剥す作業を最後にしたのは、さていつだったか、記憶にない。

 幼いころは、洋菓子というもの自体を、知らなかった。東京に引越してきて、それまでほんのいく度か食べさせてもらったことのある、ビスケットというたいそう美味い菓子のことを、東京の大人はクッキーと称んでいて、不思議に思った。「クッキー」という単語自体が、初耳だった。
 それでもまだ、自分で食べたことはなかった。たまさか母がお使い物として用意するのを視たのだったか、コロンバンや泉屋のクッキー詰合せ缶に憧れた。子ども心に、左右が白で中央が紺、その真ん中に水兵さんの浮き輪が印刷された、泉屋の缶のフタの絵柄を、ことのほか美しいものだと思っていた。なん年か経って、父の仕事も軌道に乗ってきたものだろうか、ひと様から逆に頂戴物をする機会も、たまには生じるようになった。

 ある日、来た。ついに来た。純白と紺と浮き輪の缶が。フタを開けて、大きさも形もさまざまのクッキーから、食べたいものを選んでよいと母から云われたときには、本当にかまわないんだろうかと、信じがたい気すらした。
 浮き輪のように、ドーナツのように、中央に穴の開いた大判のクッキーを選んだことは申すまでもない。

 洋菓子ばかりか煎餅・おかきの類や、海苔やお茶や、当時缶入りの食品をずいぶん眼にした。いまも贈答用の高級品においては、さようなまゝかもしれない。が、差支えない商品は、厚紙ボール箱や段ボール箱に取って代られてきたようだ。
 缶入りが重宝された最大の理由は、湿気を寄せつけなかったからだろう。今では中身一個々々が小袋に収められ、中に小さな乾燥剤が入っていたりする。
 また缶入りは衝撃や圧迫にたいして丈夫だとの理由も、あったことだろう。今では厚紙や段ボールを精巧に型抜きして、いく度も折返しては、丈夫な箱に組立てられてしまう。

 製本所にあるような巨大な断裁機で、地響きするように工場内を振動させて巨大包丁が降り、複雑な設計図に則った精巧な断裁を施して、箱に仕上げる技術は、おそらく日本が世界一かと思う。その設計図たるや、商品サイズや重量、詰合せのバランスまで精密に計算されており、商品が異なっても箱が同じなどということはありえない。
 まことに、折紙を庶民の伝統とも、美意識ともしてきた国民ならではの技術である。

 少量・月並・廉価を基本姿勢とする暮しにあって、拙宅には飲料・缶詰以外の空缶は、まずありえない。
 戦後の極貧生活中に主婦として覚醒した母は、なんでも保存する人だった。紙類・樹脂類・金属箱類・ガラス瓶類その他。母歿後、これほどあったかと呆れるほど大量に、いく度にもわたって、私は捨てた。結果拙宅には、大ぶりの空缶は存在しないはずだった。さよう思い込んでいた。ところが、である。

 先週突如として、パソコンの不具合に見舞われた。わがパソコン顧問であるながしろさんに診断を仰いだところ、原因はこの陽気による熱だとのことで、すぐさま復旧させてくださった。
 今後の対処法のご指導もいたゞいた。本式に金をかけるのであれば、パソコンの下に置く冷却台があるという。上を向いた小さな扇風機が内蔵された機械で、ビックカメラパソコン館へゆけば、容易に入手可能という。
 だがそんな金をかけるまでもなく、という噺。ながしろさんご自身は四辺形の空缶をパソコン下に敷いておられるという。熱伝導率の良い材質で、パソコンの熱を吸収し、外へ放熱してやればよいのですと、こともなげに云われた。そこに領収証やレシート類、源泉徴収票などを、まとめて放り込んでおられるとのこと。
 なるほど、放熱か。腋が汗臭くならぬためには、腋毛は剃らぬほうがよろしいというのと、同じことか。

 真似させてもらうとするか。となって、はたと困った。拙宅には、缶ビールと缶珈琲と「一日分のビタミン」とツナ缶と茹小豆缶。それより大ぶりの空缶はないのである。
 いったんは諦めた。というか、時を待とうと考えた。思いつくものがなにかあったら、四辺形大ぶり缶入りを買うことにして。
 ところが、ふと閃くものがあった。母の保存物をかつて大量に捨てたのだったが、飽くまでも階上の台所・物干場、および周辺のこと。階下の洗面台下の収納スペースには、わずかながら手着かずの領域が残されている。念のために……。

 と、あったのである。ヨックモック、モロゾフ、ブルボン。クッキーや洋風駄菓子の缶が、フルメンバーで出てきた。自分の手抜かり不徹底をこれほど幸と思ったことが、かつてあっただろうか。
 驚くなかれ、フタを開けてみたら、四缶のうちの三缶には、それぞれほんのいくピースかづつではあったが、小袋入りのクッキーが残っていて、受け皿のようになった紙にへばり着いているものまであった。
 両親健在だったその昔、一家は階上生活者で、階下は来客との打合せ応接空間となっていた。その頃、階段昇降の手間を省くべく、簡単な茶道具や茶菓子を、階下にも置いたものだろう。

 やがて階下の部屋には私がパソコンを設置するようになった。癌患者だった母に急な痛みが来ても私がすぐ判るように、さらに当時はまだ観ていた大画面テレビも観られるように、母は上の寝室よりも階下のソファで過す時間が増えた。
 母歿後は、レンタルした介護用ベッドを持込み、階下はパソコン室兼父の介護室となった。
 わずかの残量となっていたクッキー類は、永遠に忘れられるにいたったのだろう。

 二十年前のクッキーがいかなる様相となるものか、小袋を破いて視てみたい気がした。できれば噺のタネに、味見してみたかった。が、しばし考えてから、丸ごとゴミにした。その歳月にこちらも老人になっている。今の私の躰に毒だったり、変な粉があたりを舞ったりしては、取返しがつかない。

 かくして、床下に放熱式冷却装置を装備した、高床式パソコンは完成した。まだ空缶の余分がある。喫緊の危機に晒されてはいない B 機も、このさい高床式にするか。それでもまだ空缶が余る。ほかに拙宅の家電製品で、高床式に改変したほうがよろしいものはないかと、目下物色中だ。現金なものである。