一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

お迎え

南無大師遍照金剛。

 菩提寺さまを東京へ移させていたゞいたとはいえ、本籍は両親の郷里。拙宅では旧盆である。

 例のごとく、あれを忘れたこれをウッカリで、目算より四十分遅れで家を出る。秋のお供えとなれば栗。私鉄で江古田へ。雪華堂さんで栗甘納豆を調達。
 戻って花長さんで墓前用の花一対。店番は女将さんお一人で、旦那さんのお姿はなかった。
 「なんでも値上りで、大変でしょうねえ」 
 「はい、それに加えてこの陽気で、花がもちませんでねえ。これほど暑さが続いたのは、この商売に入って、初めてですよ」
 今の旦那さんと瓜二つの姿だったご先代がお店を仕切っておられて、二代目の青年にお嫁さんが来たのは、私がたしか……。
 「えゝっ、お母さんのキャリアで初めてって、そりゃ凄いことじゃありませんか」
 花にとっては、この半世紀になかった、苛酷な夏だったということらしい。

 金剛院さまの赤門をくぐる。まず水場で水をいたゞいて、手桶に花を挿す。庫裡へご挨拶。新ご住職みずからお出まし。先月の施餓鬼会での塔婆のお礼を申しあげる。ご本尊へのお供えをお願いしてから、お線香をいたゞく。
 「何十年も、廉価でお線香を頂戴してまいりましたが、このに値上げラッシュで、お困りではありませんか?」
 「たしかに原価は上ってますが、こういうものは、もともと……」
 お若いのに、柔和な笑顔を絶やさないかただ。

 置き放していた花入り手桶を取りに水場へ寄ると、脇で柄杓を手に水を汲んでいる女性ふたり。お嬢さんか若奥さんか。午前中とはいえ、気温はぐんぐん上昇しつゝある。
 「こういう日のお詣りは、骨が折れますねぇ」
 ギョッとした表情で一瞬私の顔を視詰め、どう考えても知らない人だと確めたのだろう。
 「アタシ? あゝビックリしたぁ」
 イケネッ、こういうところで、声を掛けちゃいけねえんだ、きっと。
 そそくさと歩き出す。ご本堂前を過ぎて、墓地へ。霊園入口で初老のご夫妻とすれ違う。眼が合ってしまった。
 「お暑いなか、ご苦労さまでした」
 「ひと足お先に、失礼いたします」
 なんだかホッとした。

 ごく簡単な、煤払いか取片づけ程度の墓掃除。水と花と線香を供え、水撒き。向う三軒両隣のご墓所にも水を差し、墓所前の敷石に水撒きする。ご生前を存じあげるかたは、ひとりもいらっしゃらない。
 ようやくお詣り。俺、元気。こんな老人にも、あれを書け、これを喋れと、云ってきてくれるかたが、ほんの少しはいらっしゃいましてね。おかげさまで、やるべきことが途切れることはありません。まぁ忙し度といったら、現役時分の十分の一ですけれど、今の俺には、ちょうど好いです。
 高校時代に遊びに来宅していた○○ね。弁護士だったんだけど、亡くなりました。それから大学時代に来てた○○ね、音楽家の。大病を克服したのはなによりだったんだけど、奥さんを亡くされました。どちらも新盆ですわ。

 木陰というもののない都会型墓地だ。猛暑のなか、長居もならない。戻り道、ご縁あった三軒のご墓所にも水を供え、短くお詣りする。
 手桶の底にまだわずかの水が残った。無縁仏を合祀する、大きいほうの観音さまを取巻いた草花たちに、すべてかける。やがては私も、お世話になるはずだ。
 桶を水場へお返しして、本堂へお詣り。遍照金剛をお呼びして、光明真言を三度唱える。大師堂へお詣り。御府内八十八か所霊場のうち第七十六番札所だ。こゝでも光明真言。次は大師さま銅像と四国札所巡りだ。

發心(阿波)、修行(土佐)、菩提(伊予)、涅槃(讃岐)。

 神社仏閣の境内とは、申すなれば年寄りの遊園地だ。若者の眼からは、意味もなくそこいらに置かれ、また設置されてあるに過ぎぬとみえる石碑や植栽はどれも、年寄りのための遊具である。
 金剛院さまには弘法大師立像があって、周囲が遍路道となっている。ミニミニ四国だ。四方に石柱が立ち、その前の踏石上をお詣りして廻ることで、大師さまと同行二人で四国遍路を歩いたと同様のご利益が約束されると謳われている。いくらなんでも「同様の」については、まさかネではあるが、私は月詣りのたびに、この四国を廻っている。

 季節によっても当方機嫌によっても、月々の風景が異なる。今月は、すぐ脇にそびえるモミジの大樹が、周囲の樹々を圧して力があると見えた。
 また急激に訪れた猛暑に、アブラゼミもミンミンゼミも同時に鳴きしきるほかなかった夏だとも考えた。並足で夏が到来したのであれば、ニイニイ→アブラ→ミンミン→カタカナとオーシツクの順で鳴き始める。高木巨木のほとんどない住宅地で、高い枝を好むカナカナやオーシツクが鳴かなくなって久しい。わが悪ガキ時代には、鳴いていたものだったが。
 ごく低い枝で、耳をつんざくように泣いていたミンミンゼミが、私が凝視するのを気味悪がったものか、塀一枚隣の神社へ飛んでいった。こちらが寺院で向うが神社とは、彼は知るまい。モミジからクスノキへ移っただけのことだろう。

 正午までに帰宅する目論見だった。残り十分しかない。諦めてロッテリアジンジャーエール。あまりの暑さに、緊急避難のひと息。
 買物予定をメモで確認する。サミットでスプレータイプのダニ専用防虫剤とトイレ用消臭剤(アップルミント香)。ビッグエーで納豆と牛乳と濃縮カルピスだったな。
 サミットの雑誌展示ラックに『文藝春秋』が眼に着いたので追加。近年、芥川賞発表号以外は買ったことがない。いかに世の中への関心が薄れてしまったかの証明だ。
 予定時刻より五十分遅れで帰宅。なぜ正午帰宅予定だったかと申せば、正午に予約投稿しておいたブログを、いち早くツイッターフェイスブックに共有させたかったからだ。なぁんだ……。つまり、その程度の関心でしか、日常を生きていない。