一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

夕張メロン


 ズシリと重い。こんな巨きな果実も、メロンと称ぶのだろうか。皮だけメロンで、中身はスイカではないのだろうか。

 元村君から夕張メロンを頂戴した噺は、スクロールしてみると、昨年九月十六日に書いた。たしか頂戴してから数日たって、さて食べごろ、今夜あたり包丁を入れようかという日に、書いた憶えがある。本日また、夕張からの直送便をいたゞいてしまった。昨年より三週間かひと月近くも早い。
 大好物だ。が、暮しの優先順位では、玉ねぎ、じゃが芋、人参が上だ。手の届かぬ高級品というイメージがある。むろん昨年の到来物以来、自分で買ったことがない。つまり私にとっては、年に一度のゼイタクである。

 札幌での勤め人暮しから大決断して上京し、芸術大学の写真学生となり、卒業後は看護助手や事務方として病院に勤務し、やがてご健康に不安を抱えておられた在札のご母堂を引取り、介護の末にご最期まで看取られた。彼のご苦労多き来歴のあらましは、昨年の日記に書いたから、繰返さない。
 なにせ今節苦労の種尽きぬ医療従事者。当方は定年以後めっきり出不精となり果てた引きこもり老人だ。この一年も、ご無沙汰続きだった。
 だというのに今は昔、学生時分の若干のご縁を多とされて、私に毎年ゼイタクをさせてくださる。この秋には機会を得て、元村君ともゆっくり一献酌み交したいものだ。

 出張やら学界への顔出しやらがあった時分には、北海道へもいく度か渡った。北大、藤女子大、札幌大、北星学園、小樽商大などに出入りした。別の機会には、釧路港、阿寒湖、根釧原野十勝平野帯広空港を辿ったこともある。が、広い広い北海道のほんの点々いくつかに過ぎない。行ってみたい場所だらけだが、もはや叶うまい。

 ブランドメロンの里、夕張へは、行ったことがない。昔は炭鉱の町として、たいそう栄えたとは知っていた。地図を開いて、周囲を山々に囲まれた町の風景を、想像してみたことはある。
 山田洋次監督『幸せの黄色いハンカチ』で、武田鉄矢が運転して桃井かおりが助手席に腰掛ける自動車が、高倉健を妻の倍賞千恵子のもとへ送ってゆく先が、夕張だった。あの地図の、どこいらあたりだろうか。物語そっちのけで、夕張市内の風景・街並に釘づけになって眺め入ったものだった。

 吉祥寺に初のゲイバーが開店したという時代、ママさんは新宿の老舗店のベテランだった人だが、なにせ新宿から袂を分かつように開店した手前、売れっ子の後輩を引抜いてゆくわけにはゆかない。どこへ移ってもヘルプ専門というような華のないロートルと、生れて初めて化粧する新人とを搔き集めるほかなかった。
 新人のなかにひとり、コレはっというのがいた。長身で背筋が綺麗で、眼の奥が強かった。磨きがゝかると、とんでもないものに大化けしそうだ。親しくなって、将来の夢を訊いた。接客商売か、ダンサーか、役者かと。彼女の勉強になるにちがいない一流店を、たまたま一軒知っていた。ママさんには申しわけなかったが、彼女が吉祥寺から六本木へ住替える段取りとして、ある店へ連れていったり、ある人に取次いだり、陰でひと骨折った。おかげでその後ほんの短い期間だけ、六本木のとある界隈で、好い顔をさせてもらえた。

 彼女との、しょうもない暇つぶし噺に、夕張の地図を広げては、町の様子などをポツポツ聴かせてもらったりしていたのである。もと夕張西高校のハイジャンプの選手で、北海道大会にも出場したとか、云っていた。