一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

よそ者

『季刊文科』89号(2022.8)

 〈旅×文学〉という特集が立てられて、川村湊さんと佐藤洋二郎さんの対談が、心柱となる一番のご馳走だが、筆者なん名かによるお題に沿った随筆が寄せられている。小説家の佐川光晴さんが、書いておられる。

 半生を振返りながら、「ニ十歳前後のひとり旅では、どんな土地の、どんなひとたちに立ちまじっても、おおよそ場にかなう行動がとれるようになること」こそが肝要と説き起され、「十八歳で茅ケ崎の団地を離れてからの私は今もなお旅の途上にある」と感慨を催されて、「人の成長にとって、旅=移動は不可欠である」と結ばれる。編集部からのご出題に、これほど正面切って応えた随筆も多くはあるまい。

 初めて親許を離れて北海道大学へ。北大と聴けば連想ゲームがごとく恵迪寮(けいてきりょう)と思い浮ぶほどに、学生自治精神の総本山だ。私の学生時分も、自身の志望大学か否かにかゝわりなく、別枠で憧れの大学だった。
 在学中にフィリピン旅行を経験。卒業前には、とある基金の援助を受けて、一年間南米各国を思うがまゝに周遊。一生涯分の旅をなさったようなものだ。

 卒業後ほどなくご結婚。ご長男誕生を機に夫人のご実家埼玉へ移住。職をおもちの夫人と手分けして家事・育児万端から庭手入れまで苦にせぬ、自称「主夫」として過してこられたそうな。
 夫人は旧家の一人娘で、ご実家が分家したのは四代前だが、往来二本をへだてた本家は十五代も遡れる旧家。近隣には親戚やら分家衆やらが数えきれない。夫人のお父上はかつて小学校の校長を務められ、夫人も小学校教諭を生涯の職としておられる。

 茅ヶ崎の団地に核家族の息子として育った作家は、大学生として四年間を札幌に過し、一年と少々をフィリピン、南米諸国の見聞に費やし、ついには埼玉の、途方もなく広い敷地内に瓦屋根の日本家屋がいく棟も建ちならぶなかの一軒に腰を据え、家事にいそしみ、息子ふたりの面倒を看ながら、読みかつ書いてきたのである。
 人生は旅のようなものと、この作家が云うのなら、私は納得する。

 ときに夫人のお父上は、「住みついて五十年では地域の人間として十分とはいえないと断言」なさるそうだ。作家が日々の暮しを「旅の途次での逗留がいつまでも続いている」と感じる所以ともなっている。「妻は伴侶だけれど、妻の実家は借りの(ママ)宿だ。ただし、一宿一飯の恩義があるため、自分から立ち去るわけにはいかない」とおっしゃる。
 まことに、さようにちがいあるまいなぁと、共感する。親に連れられて昭和二十九年にわが町へと引越してきた私だが、六十八年を経た今日、いぜんとしてよそ者である。