一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

お返し

李姉妹 ch より。

 「李姉妹 ch」は日本在住中国人姉妹によるユーチュ-ブ・チャンネル。登録者数三十三万七千、再生回数六千万回を超える人気チャンネルだ。
 ちなみに、とあるディレクター氏が立上げてくださり、この一年ほど私が喋ってきたチャンネルは、本日段階でご登録者百七十五名さま、再生回数ようやく一万回を超えたところ。おなじ Web 上に存在していることが面目ないほどの差である。

 ゆん(姉)さんの話題提供を受けて、しー(妹)さんの機敏なコメントと展開。日本と外国の比較文化的話題が主となるのは、在日外国人ユーチューバ―の定番と申すべきところだが、小気味よいスピード感で、身近な話題や耳寄りな検索結果が整理されてゆく。その腕前と、二人の呼吸の見事さが傑出している点が、人気の秘訣なのだろう。
 この呼吸と間は……と考えて、男性芸人さんを引合いに出して申しわけないが、中川家のお二人を思い出させる。

 姉妹間でのアイコンタクトや、視聴者との三角形の形成のしかた、押し引きや出し入れはどうなっているのだろうと、頻繁にストップモーションしながら眺めさせてもらって、途方もないことに気づかされた。会話中に、お二人同時にカメラ目線となる瞬間がほとんどないのだ。
 オープニングとエンディングのご挨拶は、当然ながらお二人ともカメラ目線。だが話題が回転し始めると、お二人同時はほとんどない。にもかゝわらず視聴者の印象では、お二人だけの閉された対話ではなく、つねに視聴者に語りかけ、説明し、念を押して進行していると見える。かなりの頻度で、カメラを視ている。いずれか片方が。
 ならば喋るほうがカメラを視て、聴くほうが相方の横顔を視ているのかと申せば、そんな紋切り型ではない。相方の横顔に向けて喋っている場合もあれば、聴きながら視聴者に向けて「どう思いますあなた? ねぇーえ」と問いかけ目線もふんだんにある。むろんお二人が視線を合せて対話する瞬間もある。
 姉妹ならではの阿吽の呼吸と申せばそれまでだが、これは恐るべき技術だ。

 ところで昨日の話題は、中国人が驚く(感心するも閉口するも含めて)日本人の馬鹿丁寧な対応についてだった。相手の姿が見えなくなるまで続ける長い(または繰返しの)お辞儀。両膝を突いて注文を聴く飲食店の店員。会計が済んでも商品を持って出口まで見送るブティック店員。たしかに私も眼にしたことがあるし、どうしてかと問われれば、うまく返答できない。
 極めつけに、日本社会の伝統的風習のひとつ「お返し」文化が指摘された。ちょいとした手土産だのついでの買物だのではなく、なにかいたゞきものをしたら、遜色ないものをお返ししなければと考える、日本人の習性のことである。慣れない人にとっては、また外国人にとっては、重くのしかゝる強迫観念にだってなりかねない。それで思い出した。

鏑木清方「一葉」(1940)、絹本着色、143,0 × 79.5 ㎝(部分)

 樋口一葉の最高傑作は『大つごもり』でも『たけくらべ』でもなく『にごりえ』と、私は視ている。
 主人公の茶屋女お力(おりき)を今は措く。彼女に入れ揚げてすっかり腑抜けとなり、仕事にも家庭にも気が向かなくなってしまった源七を、極貧暮しに精魂尽き果てた女房が涙ながらになじり、恨み言を並べる場面。見事と申すほかない長台詞を、残念こゝではご紹介のすべなく。

 ――よしや春秋の彼岸が来ればとて、隣近所に牡丹もち団子と配り歩く中を、源七が家へは遣らぬが能い、返礼が気の毒なとて、心切かは知らねど十軒長屋の一軒は除け物、……
 (春は牡丹もち秋はお萩と、お彼岸には手作りして向う三軒両隣へお配りしてきたんじゃないの。それがアンタ、こゝんとこ奥さん連中なんて云ってるとお思い? 源七んとこだけはやめとけ、お返しを考えさせるのは気の毒だ。親切心からにはちがいなかろうけど、この集合住宅で一軒だけ仲間外れなんだからね。聴いてる?)

 二十四歳と半年で他界した一葉の、信じがたいほどの傑作があい次いだ晩年は「奇跡の十四か月」と称される。めったに奇跡を信じない私だが、これはたしかに奇跡的としか申しようがない。
 音読したい、声に出して読みたい小説文章は、夏目漱石よりも島崎藤村よりも、樋口一葉にある。なんぞと申すと、また叱られたり、干されたりするけれども。

 申し忘れた。「李姉妹 ch 」には、もちろん登録済である。