一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

川に立って

 いつまで観られるか、いつまた観られるか。

 「はてなブログ」の暦画面を開くと、一年前の今日の日記タイトルが表示される。あれを書いてからもう一年も経ったかと、すぐさま思い出せるものもあるが、はてな、これはなにを書いたのだったかと、すっかり失念しているものもある。開いて読めばたしかに自分の文章ではあるのだが、そのときの気分や意図がよみがえってこないものすらある。
 ちょうど一年前の今日には、今ではほとんど顧みられる機会もなくなった上司小剣という作家の、代表作でもなんでもない『清貧に生きる』(千倉書房、1940)を採りあげて、なにか云ってたりする。まったくもって、今の世に響かせるところのない日記である。

 道路を挟んだ筋向うの音澤さんの敷地に立つネズミモチの大樹が、たゞ今たわわに実を着けていると、そして遠からず鳥たちのご馳走となって果てるだろうと、昨日書いた。書いてしまってから、来年これを眺められるとの保証はどこにもないと、改めて想い返した。酔狂にも、朝からカメラを手に、表へ出てみたわけである。

 西へ回って、拙宅方向を眺める。
 私が立つ位置は、かつて三国さんとおっしゃるご大家のお庭の、雑木林だった。艶つやした厚手の瓦が屋根に波打つ、どっしりした和風のお屋敷だった。代替りさらに代替りして、今はこゝから左手にあたるマンションのオーナーさんだ。
 才覚おありのかたは、さすがに違う。道路側の土地はさっさと東京都に売り、左手へ引込んでご自宅を新築なさり、マンションの手入れをなさった。
 
 フェンスの向うはコイン駐車場だ。かつては日本銀行の社宅だった。社宅といっても、部課長級向け一軒家で、やはり豊かな樹木に囲まれた和風建築だった。ドングリがたくさん道路に降った。人事異動だろうか、なん年かに一度、お住いのかたが替った。
 バブル崩壊期だったか、売却されて更地となり、立札の所有会社名がいく度か変ったあげくに、コイン駐車場となった。今も営業中だが、なにせ事業主さんだ。条件が折合いさえすれば、いつでも手放せる状態なのだろう。

 東へ回って、拙宅方向を眺める。世が世なら、私は川の上に立っていることになる。
 手前の角地は、古くは天ぷら屋だったりスナックバーだったりもしたが、三十年ちかくはクリーニング店さんだった。

 その向うはかつてはモルタル造の二階建てアパートで、一階はこゝ十年ほどは歯科医院が開業されていた。敷地内のコンクリートと道路アスファルトとの間のわずかな土に、よくもまぁこんな処にといった感じで、イチジクの樹が一本立っていた。歯科の先生や看護師さんがたはいずれも通いで、こゝにはどなたもお住いではなかったから、大雪に降られたりしたときには、ほんのお玄関先だけだが、雪掻きしておいた。お年寄りの患者さんが多いと、お見受けしたからだ。
 二階には常時四世帯が、入替りたち替り住まわれた。拙宅方向にベランダが開いた部屋もあって、洗濯ものその他が舞い落ちることもある。
 「木戸はいつも開いてますから、どうぞご遠慮なく、いつでもお入りください」
 その部屋の住人が替るたびに、さようご挨拶申しあげた。

 地主さんの顔は知らない。遠くにお住いだという。この土地にも、この町の商売にも、ご興味ないのだろう。東京都から話を持ちかけられると、契約更改年がくるのを潮に、皆さん次つぎに去ってゆかれた。
 クリーニング屋さんは石神井のほうでご商売と聴いた。おふたりともざっくばらんなお人柄で、佳いご夫婦だった。
 最後の店子が去ると間髪を入れずに解体作業。あっという間に更地となり、緑の金網が張りめぐらされて、「道路予定地につき立入禁止」の白い立札が立った。

 西から眺めても、東から眺めても、拙宅だけが道路に突きだして、用地接収の妨害をしているかに見えている。じつはさにあらず。抵抗も妨害もしてはいない。急いでないだけだ。
 御上も年どしの予算にそって進行している事業だから、われ先にと手を挙げた、熱心な住民を優先して事を運ぶ。今さら早いが得も遅いが損も、ありゃあしない。抵抗する気はないが、率先して動く気もないと、手を挙げずにいたら、かような姿となった。

 私は川の上に立っている。左手の道路を挟んだ真向いの、川端の角地は音澤さんのお宅で、今朝現在、まだネズミモチの実は鳥たちの餌になっていない。