一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

継承

 長野市で発行されている評論誌『溯行』の最新137号が届いた。私にとってご恩ある雑誌だ。信州文界のご長老のお一人であられた滝澤忠義さんが他界されて一周忌とのこと。所縁あったかたがたの回想や証言を集めて、特集しておられる。私はついに、お眼どおりいたゞく機会を得なかった。

 一九六〇年代後半から七〇年代前半にかけて、東京と長野にお住いのお二人の、同人雑誌先達に出逢った。おふたかたとも、同人雑誌を文壇へ出てゆくための足がかりなどとは、これっぽっちも考えてはおられなかった。べつに反発していたわけではない。大ジャーナリズムを背景とする文壇文芸と、みずからの志に拠って立つ同人雑誌とは車の両輪のごとくであって、併せて文界を盛上げるべき存在だとの気概を、強くもっておられた。
 小規模なりとも完全なる自由の天地をみずからの手で造り営む、同人雑誌の精神というものを、お二人から叩き込まれた。以後私は、新人賞に応募することも、大出版社へ原稿を売込みに歩くこともけっしてするまいと、心に誓って、今日までやってきた。その姿勢が、ときには意地が、自分に得だったか損だったかは判断しかねる。たゞ後悔はない。

 長野の恩人は立岡章平さんとおっしゃった。文芸批評家にして日本古代史研究家で、両分野を根っこで結びつける、いわば人間性と美意識の根柢にあっては、斎藤茂吉への尽きざる愛着を終生貫かれた。惜しくも四十歳代で夭折された。二十歳の私の眼からは、大人の風格と見えていたが、今考えればなんとお若かったことか。
 生涯にいくつかの同人雑誌に関わられ、寄稿されたが、それらとは別に、みずから起して自由の天地と位置づけられたのが『溯行』である。文学論は他雑誌へ寄稿され、『溯行』には日本古代史論が連載された。

立岡和子著作集3『歌(フォーク)を聴いた』(龍鳳書房、2015)

 章平さん夭折の後は、夫人立岡和子さんの手で、『溯行』は続刊された。和子さんは当時、フォークソング論を『溯行』に連載しておられた。面倒臭い楽理でも政治思想論でもなく、ライブやフェスに愉しくこまめに足を運ばれた豊富なご経験を土台に、いわば現場からの報告・感想をふんだんに織りこんで、私ごとき門外漢でも読ませてもらえる音楽論だった。
 後年はフォーク論をひと区切りにされ、夏目漱石論をはじめとする文学論を、数多く載せられた。
 章平さんの時代より、和子さん主宰の時代がはるかに長くなった。名にしおう世に隠れた賢人や、中央(=東京)なにするものぞの気概をたもつ見識人が、ずらりと顔を揃える長野文界である。主宰のご苦労はひととおりでなかったことだろう。

 その和子さんも、だいぶお齢を召された。主宰の気働きも編集実務をもとなれば、いかにも激務である。第何号からだったか、ご長女の立岡祐子さんが継承なされて、今に至っている。古手の執筆陣は父母の年齢、もしくはそれ以上だ。楽なお仕事ではあるまい。
 今回特集の滝澤忠義さんは、フランス文学者であられたものの、そんな枠には収まりきらぬ教養人でいらっしゃった。創刊当時から、章平さんの盟友でいらっしゃったと聴く。かたがたの回想文・追悼文にも、懐かしさや感謝の念、軒を連ねるがごとし。

 ところで同号には、立岡祐子さんの『中山ラビの歌』という文章が載っている。祐子さんにとって滝澤さんの一周忌はまた、中山ラビの一周忌でもあるとのこと。このシンガーソングライターに心奪われた齢ごろを回想され、今も聴き返す想いを率直に語っておられる。
 なるほど、ご母堂の筆は、こういうふうに継承されているか。