一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

お祭


 地元神社の祭礼である。毎年九月の第二週末と決っている。

 立春から数えて二百二十日近辺に、どうしてもなる。雨風に祟られる年が多い。「雨祭」の異名まである。今年も例外とはならず、昨深夜から小雨となった。二日間の祭礼のうち一日めが晴天だと、明日は予報になくとも夕立でも来るのではないかと、住民は囁き交す。なん年かに一度しか実現しないが、晴天が二日続こうものなら、
 「今年は晴れたねえ」
 「あゝ晴れた。なんか起らなきゃ好いが……」
 路ですれ違う年寄りたちは、さように挨拶する。私もその一人だ。

 だが昨年も一昨年も、さような挨拶は交されなかった。晴れたからではない。神社境内はおろか駅周辺の街路をところ狭しと埋め尽すテント露店がいっさい禁止されたし、神輿の巡行も制限されたからだ。大勢の人が集ってくる要因が、ことごとく排除されたのである。そうなれば降ろうが晴れようが、たいした問題ではない。
 今年も露天商はいっさい出店されない。境内や駅周辺の商店街が、ラッシュアワーそこのけの人出でごった返す可能性もありえない。
 この数年間に、わが町へと移ってこられたかたも多かろう。新築マンションも増えたし、学生や独身者向きの安アパートも依然として少なくない。立教大学日本語学校学生寮などもある。わが町の祭礼を観たことがないとおっしゃる新住民も、だいぶいらっしゃることだろう。この町を知っていたゞく好い機会なのに、惜しい。
 

 「今年もお祭りは中止だそうですね」
 残念そうにおっしゃる若者もおいでだが、それは正確ではない。埋め尽す露天商や人出であたりがごった返すことこそなかろうが、神社にて祭礼は執りおこなわれる。一日めには前夜祭が、二日目の午前十一時からは奉納神事が、恒例どおりに執りおこなわれる。神楽も奉納される。
 昼間はもちろんのこと夜九時まで、一般参詣者はお詣りできる。けっして多いとは申せぬ照明設備やかゞり火のなかで、しめやかに宵宮詣りも悪くない。露天商の灯でまばゆいばかりの境内とは、また異なったおもむきというものである。

 祭礼の次第は回覧板でも回ったが、神社の大鳥居脇の掲示板にも出た。隣には「生態系保護のため野生動物にエサを与えるな」との貼紙が出ていて、思わず吹きだした。あながち地域猫や鳥たちのみを指しているわけではないかもしれぬ。人間に露店での買い食いなどさせぬと、釘を刺しているようにも読めてしまう。

 大太鼓を積んだ山車と、子ども神輿は出るそうだ。この町をふる里と将来想い返せるような、思い出を子どもたちに授けたいとする、せつない親心かもしれない。大人神輿は飾り神輿となる。人目に着く公開安置所に飾り置かれて、通行人から眺めてもらおうというわけだ。
 拙宅北隣の児童公園が、わが町内の神輿安置所となる。往来に面した場所に、ヨシズを張り回した神輿小屋が建った。休憩所・寄合所の役目をするテントが、その奥に張られた。昨日午後から夕方にかけて、町会の顔役がたと野尻組の若い衆とが総出で作業を了えた。山車や子ども神輿も、きれいに掃除され、太鼓の試し打ちもされた。
 で、今朝早く、神輿が公園隅の倉庫から引出された。

 今から二日間、野尻組の若い衆たちが寝ずの神輿番を務める。日ごろから、なにくれとなく近所を看てくれているトビ職の一家である。カシラへ一升、届けねばならない。威勢の好い若い衆たちにとっては、ほんのひと口づつでしかないけれども。