一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

祭礼第一日


 深夜にパラリと来たときには、あゝ今年もかという想いに誘われた。なにせ「雨祭」である。ひと眠りして起きてみると、これが快晴。暑くもなく寒くもなく。これほどの祭日和は、はてなん年ぶりだろうか。

 クリーニング屋へ夏物ジャケット二着を依頼。今年はもう再登板の機会なしと踏んだ。ついでにカッターシャツ二枚。こんな普段着をと気が差したが、日々粗末ななりの私としては、ましな部類に属する衣類。
 「世間水準では普段着でも俺には晴れ着」と申し添えて、女店員さんの愛想笑いを誘っておいた。

 靴に履き替え、荷物を持って、まず野尻組へ一升。720 ミリリットルなどという、使い勝手一本槍の瓶が時流だが、差入れには景気悪くていけない。かといって、奉納品でもあるのだから、紙パックというわけにもゆくまい。
 すでに寄合って気炎を揚げているなかに、顔馴染の若い衆もいた。
 「町内のもんです。ご苦労さまでーす」
 「おゝ先生どうも。これ、お持ちになってください」
 助っ人に出張ってくれた衆へのお土産だろうか、事務所の隅に山積みとなっていた手提げ紙袋からひとつくださった。資生堂パーラーの缶入りサブレ二十二枚入りだった。再利用できる手頃な缶のやつだ。助かる。

 その足で駅・神社方向へと散歩に出る。疫病前の祭であれば、私なんぞこゝらを歩けない。濁流に浮き流される軽トラックよろしく、プカプカウラウラとたゞ押し流されるまゝになってしまう。今は人影もない。
 左手に老舗の質屋さんの看板が見える。お若い新住民のほとんどがご存じないが、昔この地で帝銀事件が起きた。報道資料として必ずと申してよろしいほど紹介される、有名な現場写真が伝わっているが、今の私と同じ構図で撮ったものだ。質屋さんの白ペンキ塗り木製看板が、まるで目印かのように写っている。今は黄色の蛍光灯看板。その正面、今は煉瓦塀をめぐらせた集合住宅に統合されている一区画が、帝銀○○支店の跡地である。
 初めて訪れる街を歩いて、質屋と銭湯とを視かけるようなら、そこは古くからの住民がまだ根を張っている街である。憎まれ口で申せば、代替り地主や不在地主と結託した開発業者から、まだ喰いものにされ尽していない街である。ありがたいことに私は三軒の銭湯にかよい分けている。残念ながら、質屋がよいの経験はない。

 


 境内も閑かなものだ。露店が軒を連ねる祭礼であれば、外の街路以上に私なんぞ、躰を斜めにしたって歩けやしない。今はお独りでのご参詣、幼児の手を曳いて親子でのご参詣など、ちらりほらり。祭礼日につきお詣りか、それともたんに週末だから散歩を兼ねてのお詣りだろうか。
 拝殿前に長く長くお詣りなさる中年のご婦人が一人。お悩みかご心配があって、本気で神さまにおすがりしておられるのだろう。私なんぞ薄っぺらな、趣味的お詣りだ。

奉納。

 お神楽が始まる。祢宜姿の男性と巫女姿の女性との二人が、動画とスチールの撮影班として、開始前から境内にスタンバイしている。ほかに観客はデジカメをポケットにした私ひとりだ。
 太鼓と篠笛と締め太鼓の三人編成。お祖父ちゃんとお父さんと坊やといった年恰好に見える。実際さようなのかもしれない。訊かなかった。
 十五分を超える、素人眼にも力演と見える奉納だった。たまたまご参詣か、音曲に釣られて立寄られたか、奉納終了時には二十人近くの聴衆があった。奉納中にも、先を急ぐご事情おありか、立停まらぬ人もあったようだが、私は初めから仕舞いまで聴けて、ほんとうに好かった。
 このあと舞いの奉納もあるとのこと。拝見したかったが、私にも先を急ぐ想いがあり、境内をあとにする。明日もう一度、チャンスはある。


 噺戻って今朝のこと、山車の大太鼓の乱れ打ちが聞えてきた。鳴りを確かめているなどという程度ではなく、少年たちに好きなように叩かせている感じだった。作法通りのリズムであれば、多少の乱調もご愛敬だが、かくも滅茶苦茶となるとやかましい。窓ガラスもビリビリと震える。
 山車の大太鼓の音は、綱曳くもの全員の声を束ねた音であり、ひいては町内住民全員の声を束ねた音だ。一人ひとりがてんでんばらばら氏神さまに呼びかけたところで、騒がしいだけで神さまだって聴きとれまい。住民の声と心を束ねる必要がある。サンバ・カーニヴァルとは、わけが違う。派手に手数が多ければよろしいというものではないのだ。
 役員とか顧問といったかたがたには、ご年配者も多かろうに。少年たちに、懇切丁寧に教えてやってくださらんか。太鼓だけに、バチが当るぞと。