一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

百日紅


 暑苦しいほどに咲きほこる夏の花木が、好きである。季節の終りを迎えた。

 児童公園の端の植込みに、サルスベリがひと株、もう二十数年立っている。区の管理担当者に気に入られているものか、あたりの植栽はいく度も模様替えされたが、このひと株だけは、不動の位置にいる。
 周囲一帯がヤマブキに覆われていた時代があった。明るい緑葉がこんもりとして、春には山吹色が咲き乱れた。ヤマブキは花弁も蕊も、あたりが汚れたと感じられるほどに、派手に散り散らかした。その時分サルスベリは、私の背丈ほどの高さだった。
 葉が細かく幹の丈夫そうな、矮性のツツジが、敷詰められたように周囲を埋めていた時代もあった。混みあった根元は、ムクドリの番いが隠れ家としていた。その時分もサルスベリは立っていたのだが、樹高については記憶にない。

 現在は私の背丈の倍ほどに成長している。猛暑の、ほかに花が視当らぬ時期に、これでどうだと云わむばかりに、ビッシリと花を着ける。今年の花はすでに盛りは過ぎた。枝の先端部分から順に、実を着け始めている。実はまだ青く、鳥たちから注目されてはいない。名残の花に、蜜蜂など昆虫類が見向きもしなくなったら、鳥たちがやって来る。

 サルスベリの根方近くにはベンチがあって、よく働く。陽射しの穏やかな午前中には、近所の保育園の保母さんたちが、園児たちに運動と日光浴とをかねて散歩させようと、引率してくる。まだ独りでブランコを漕ぐことはできぬ児童たちだ。長時間の陽射しはかえって児童の躰に毒なのか、三十分以内で帰ってゆく。来るときも帰るときも、二列に整列して手をつないで歩く。
 正午過ぎには、今日の現場が近いのだろうか、職工さんやガードマンさんが腰掛けて弁当を使ったりする。風呂敷包みの弁当箱という文化は廃れたらしく、たいていはコンビニ弁当やカップ麺のようだ。
 午後は公園全体がガラ空きとなる。夜が更ければ、酩酊男性が酒気を醒まそうとてか、独り物想いに耽っていたりもする。

 かつて夏休み期間中といえば、大学生や高校生うっかりすると中学生たちの、グループ交際の場だったり、カップルのデートスポットだっりした。愉しかったり照れ臭かったりするのだろう、ヒソヒソ声に混じって無闇で空疎な高笑いなどが、深夜まで聞えたものだった。
 この数年、寝苦しいような夏の盛りにも、そういう光景は観られなくなった。若者の行動様式が変化したのか。疫病によって、直接面談の交際が自重されがちとなったのだろうか。夕暮れから早朝までのベンチは、めっきり暇となった。
 もっとも、かつてベンチを頻繁に利用なさったかたがただって、どれほどがすぐ背後に黙って立つサルスベリの存在に気づいておられたか、それは判らない。