一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

彼岸花



 かようなゴミゴミしたところで、ようこそ今年も咲いてくれました。瓦礫が多く埋っている拙宅の粗悪地にやって来て、まだ三年か四年の新顔である。

 ♬ 赤い花なら曼珠沙華 阿蘭陀屋敷に雨が降る(『長崎物語』作詞 梅木三郎)

 圧倒的に多いのは赤花である。金剛院さまの境内でも、植込みの一画が鮮血絨毯を敷詰めたように、真赤に染まる。ところが拙宅にたまたま飛来して逗留しているのは、珍しい白花だ。正確にはクリーム色だけれども。邪険にできようはずがない。
 それにしても、よくもかような土地にと訝しく思っていたが、たまたま今年は、周辺の草をむしってから日を経ていなかったので、根元あたりを検分してみた。で、得心がいった。

 彼岸花の茎は、地面から芽を出してはいなかった。他の植物の根だか茎だかの塊から芽吹いていたのである。
 記憶違いでなければ、君子蘭のバルブの集合体である。鉢植えの君子蘭が成長し過ぎて、株分けか鉢替えが必要になったとき、手入れが面倒臭かったので、過剰なバルブをむしり取って、放り出すように地植えしてしまった。十年以上も前のことだ。君子蘭にはさほど愛着を抱かぬ私は、生延びればよし、腐って朽ち果てても惜しくはないという程度の思いだった。

 いくつかが生残って葉を出してきた。が、こゝらあたりは陽当りにも風通しにも水はけにも恵まれ、毎年ドクダミやシダ類がもっとも勢いよく繁茂する一帯だ。他の雑草類も多く、しぶとい。いきおい草むしりも、気を遣った仕分けなどしていられない。他の草や蔓や地下茎と区別することなく、乱暴に引っこ抜いてきた。伸ばしかけた君子蘭の葉も、容赦なく引きちぎってきた。そのたびに君子蘭は未来世代への希望をつなぐべく、地上へ伸びられなかった余剰エネルギーをバルブや根に溜め、細胞分裂するかのようにバルブを増やし、集団化してきたのである。
 今では、ズイキの親芋のように巨きくなり、よく観るとまるで、茗荷かイチジクの実が寄り集っていっせいに天を向いて並んでいるような形状となっている。
 とはいえ個別に形をもったバルブの集合体だ。隙間もあれば水と空気の通り道も豊富だ。そこへどうやら、彼岸花が着地したと見える。

 解せなかったのだ。もともと瓦礫の混じる土地であるうえに、なん年もかけてドクダミや蔓草類の地下茎が綿密にはびこって、地味は貧しくなり尽しているはずだ。こんな土地に、よくもまあ彼岸花がと。
 得心がいったというのはそこだ。余剰エネルギーを貯蔵する君子蘭のバルブ群が、地味の代りを務めてくれているらしい。

 四メートル離れたところにも、いく株かの彼岸花が茎を伸ばしてきている。もしやと思って、根元を検分してみた。あったあった。そこにも鉢から溢れた君子蘭のバルブが土着化し、先祖還りしたかのような、ズイキの親芋状態のバルブ集合体が。

 すでに開花したほうの株は、やがては東京都に召上げられる地域にあるので、今ツボミでいる株の近くへと、移植せねばなるまい。そもそもその件が頭の隅にあればこそ、本日、彼岸花の根元をしかと視定める必要があったのだ。
 植替えのつねで、根っこだけ掘りあげて移植しても上手くはゆかない。根回りより大きめの穴を掘って、土付きで移動させなければ。ということは、である。そうとう大きな穴を掘って、君子蘭バルブの集合体ごと、そっくり移動させねばならない。果して瓦礫や地下茎類による妨害を掻いくゞって、それだけの穴が私に掘れるものだろうか。
 老人の懸念は、なんぞ介護保険問題や少子高齢化問題のみにかぎらむや。とりあえずは、穴問題である。