一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

珈琲はお好き?

『遥かなる山の呼び声』(監督 山田洋次、松竹、1980)より。

 ―― あのぅ、ハンカチ渡しても、いゝですか?
 『家族』『故郷』と連なってきた、いわゆる民子三部作のなかでも、この作品はことに好きだ。北海道を舞台にした代表的作品と人気の『幸せの黄色いハンカチ』と、いずれか一作をと迫られても、こちらを採る。
 下敷きは西部劇映画『シェーン』じゃないかと、ネタバレ的批評を聴いても、やはり好きだ。

 『幸せの黄色いハンカチ』が封切られた一九七七年当時、面白さに魂消た。さかんに感心したもんだった。今も、傑作とは思う。が、年寄りの眼で観かえすと、武田鉄矢さんと桃井かおりさんが演じた二人の若者の人間像が、いくらか紋切り型だ。喜劇性を外れて、娯楽性に振れ過ぎたきらいなきにしもあらず。高倉健さんと倍賞千恵子さんとで織りなすドラマとのアンサンブルに疑問が湧く。融合しきっていない感じがする。
 そこへゆくと『遥かなる山の呼び声』では、地元有力者のような一見無遠慮オヤジのような虻田とかいう、ハナ肇さん演じる脇役がピタッとはまっている感じだ。

 ま、したり顔して映画評をする気はなく、たんにどちらの倍賞千恵子さんがより魅力炸裂かと、眺めているのが正直なところだけれども。
 もっとも倍賞さんとなれば、山田作品では『キネマの天地』での、お隣の(そして主人公渥美清さんの憧れの)奥さん役を、逸することができないし、高倉健さんのお相手役となれば、降籏康男監督作品『駅 STATION』も外すわけにはゆかない。
 いずれにもせよ、七〇年代から八〇年代初頭にかけての倍賞千恵子さんの美しさは、ちょいと例えようがない。凄味とか絶世の美女とかいう役どころでも芸風でもないために、つい馴れっこになってしまいかねぬが、途方もなく美しい女優さんである。
 「下町の太陽」だった倍賞さんよりも、この時代の倍賞さんが好きだ。それに加えて、歌手としての倍賞さんの CD アルバムは、私の永久保存ラック入りしている。
 


 とつぜん『遥かなる山の呼び声』を思い出したのは、初めての袋入り珈琲を買ってみたからだ。もっとも手数のかゝらぬ顆粒状のインスタント珈琲を愛用しているが、空瓶が溜ってゆく。処分するにはもったいない。詰替え用の中身だけの商品はないもんだろうか。あいにく好都合な商品はなかった。すくなくともビッグエーでは視かけなかった。しかるに当方は完全なる在庫切れ。補充は急を要する。

 で、なん年振りかで、粉に曳いてある珈琲を買ってみた。かつて缶入りの粉状珈琲を買っていた時期もある。私には、アルコールランプを持出してサイフォン器具で珈琲を愉しむ趣味はない。が、下受けポットの上に専用漏斗(じょうご)を置いてドリップ抽出する程度のことはしていた。処分はしていなかろうから、食器棚の隅か収納引出しの奥かには、道具一式まとめてあるだろう。が、今さら使用する気は、あまりない。
 小鍋に沸した湯に、粉珈琲を適量投入してしまう。湯加減だの、量だの時間だのを按配して濾紙で濾せば、そこそこには飲める。味や香りにウルサイでもない私には、それで十分だ。どうせ温かいうちに飲むのは一杯だけで、あとは砂糖を差して、リッタ―ポットに移して冷蔵庫。アイス珈琲にして飲料水代りに飲むのだから。

 顆粒状のインスタントが詰っていた瓶のラベルには、九十グラム入りとある。粉状の袋には二百八十グラム入りと、印刷されてある。9×3+1=28 というわけだが、顆粒と粉とでは気相部分(粒子間空洞比率)がかなり異なることだろうから、空瓶三個で十分に間に合うはずと踏んだ。
 で、開封して移してみた。なんと三つめの瓶の三分の一にまでしか届かなかった。間に合うはずどころか、顆粒と粉とでは、重量に較べて嵩がこれほど違うものか。予想を超える違いだった。これが本日の発見。
 鉢植えを植替えるさいの、鹿沼土と畑土との配合がこの問題だったなと、なん十年も前のことを思い出した。

『遥かなる山の呼び声』より。

 ―― あら好い匂い。まぁ、珈琲。好きだったのね。買ってきたの?
 ―― 兄貴(鈴木瑞穂さん)が土産に。さんざん迷惑ばかりかけた兄なんです。
 ―― お寄りくだされば、よかったのに。
 ―― 飲みますか?
 ―― あたし? えゝ、なん年ぶりかしら珈琲なんて。娘時分に博多にいましたから、喫茶店で。
 ―― 博多? じゃあ奥さんは、博多からこっちへ?

 来しかたの一部を言葉少なに明しあって、互いの気持がグッと近づく。珈琲という小道具がなければ、ふたりともこんなことを明しあう人柄ではなかった。
 ドラマティックな場面はほかにいくらでもあるが、一見さりげないこの場面が、私は好きである。