一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

葡萄


 「黒い真珠」とも称ばれるそうだ。ピオーネというブランド葡萄だ。

 ジャズヴォーカリストで作曲家の丸山繁雄さんから、ありがたいお中元を頂戴したのは、七月上旬だった。お礼状はむろん差上げたが、お返し品のお届けはしなかった。欠礼である。
 ものぐさの性格と暮し簡素化の考えとから、知人へのご挨拶は原則として年一回、年末年始にということにさせていたゞいている。社会通念に反するけれども、あれこれを勘案して決断したことだから、ご寛恕を願いあげている。

 丸山さんは今春、最愛の令夫人を亡くされた。この夏は新盆である。ご仏前にお供えいたゞこうと、花を少々手配しておいた。と、そのお返しということで「志」のお品を頂戴してしまった。なんだか私ばかりがダブルでいたゞきものをした気分だ。日比谷花壇からの荷物を「お中元」としておけば、余計なお気遣いをいたゞかずに済んだものをと、悔まれる。
 頂戴したのは、岡山県産のピオーネだ。巨峰やシャインマスカットと並ぶブランド葡萄である。観るのも久しぶりだが、いたゞくのは生れて初めてだ。
 桃太郎のふる里だけあって、岡山県はフルーツ王国といえる。年間の晴天日が日本一多い県であることと関係あるのだろうか。だが私は観たり聴いたりするばかりで、賞味した機会はほとんどない。

 出張機会の多い社会人だったころ、山陽道は私の得意コースだった。岡山市では、紀伊國屋書店さま、細謹舎さま、丸善さま、泰山堂書店さまへは、いく度もお願いに伺った。岡山大学ノートルダム清心女子大学、就実女子大学、岡山理科大学岡山商科大学へは、いく度もお邪魔した。
 桃太郎大通りの寿司屋の親方には、いつも好くしていたゞいた。表町のスナックには、顔馴染のママさんもあった。お連れした客人を、上手に接待してくださった。

 にもかゝわらず、である。後楽園には入ったことがない。天守閣も観ていない。そしてそして、王国のフルーツも賞味していない。売上げや商談で頭が一杯になっているから、観光やフルーツに気が向かないのだ。ママカリや明石のタコで酒を酌んだことは数え切れぬほどあっても、土産にマスカットを買って帰るなどということは、思いつきもしなかった。出張族の視野の偏りというものは、仕様のないものである。
 今ならまっさきに眼が停まるであろう銘菓も名産品も、素通りしてきた。さようなものを視逃さぬようになったころには、もはや出張の機会はない。
  

 馬鹿にしてもらっては困る。私の暮しにだって、葡萄だって桃だって、、リンゴだってオレンジだってレモンだってある。
 たゞ本場産の本物を口にする機会がないだけだ。丸山さん、ご馳走さま。