一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

時間差


 絡みあった花は、そのまゝにしておく。

 遠くを通り過ぎた台風の余波で二日間、時おりの雨と不意の突風に見舞われた。開花して頭でっかちになっていた彼岸花にとっては、災難だった。
 B 地点(二番目に開花し始めた株)は茎を五本も立てた大所帯だが、一日目に一本が、二日目にもう一本が、深ぶかとお辞儀するようにしなって、花を地面に着けそうになった。茎が折れるふうでもなかったので、あたりの素焼鉢を周囲に伏せ置いて、寄りかゝらせるようにして、立たせておいた。屈めさせたまゝのほうがかえって無事なのだろうかとの思いも湧いたが、やってみた。

 台風一過、陽気がもどって、恐るおそる鉢をどけてみると、すっくと立ち直っていた。それどころか、花弁同士が絡まって、スクラムを組んで協力しあうようにして立っている。一時は身を屈めていた二本も含めてである。
 たんに風に揺すられているうちに絡まったに過ぎぬのだろうか。それとも植物の本能のなかに、一本では立ち続けられなくとも、絡まりあって風への抵抗力を増しあうような習性が備わっているのだろうか。

 植物の意識、という他愛もないことを考える。思えば、メーテルリンク『青い鳥』の第何場だったか、チルチルとミチルが深い森の奥へと迷いこんで、巨木老木たちの嘆きを聴かされる場面があった。じつに長い年月にわたって、横暴な人間たちから受けてきた暴力や災厄を、巨木老木たちは次つぎに語って尽きなかった。
 子ども読者・観客のみならず、おとな読者・観客だとて、なんの違和感もなく樹木たちの台詞を聴かされて、共感してしまう。メーテルリンクの力量ということもあろうが、人間の裡に、植物も意識を持っているのではないかとの予感が共有されてあるのではなかろうか。あるいは意識を持っていて欲しいとの期待か幻想かが。
 ちなみにメーテルリンクは、昆虫とくに蜜蜂の観察家・研究家でもあった。
 

C 地点、新たに参入。

 ところで、B 地点写真の最奥の塀ぎわに、かすかに一点の白花が写りこんでいる。これが C 地点だ。毎年最後に開花する。敷地の北東角で、建屋の陰となって日照時間が乏しく、南風も西風もこゝが袋小路となる。生育環境がもっとも劣悪なのだ。
 今は茎一本だが、もう一本か二本、後続の茎を伸ばしてくるかもしれない。これらも、少しはマシな条件の場所へ、つまりは B 地点のそばへ、移してやらねばならない。

 

 もっともマシな環境で最初に開花した A 地点では、先頭を切った一輪と二番手とはすでに出番を了え、風雨のなかで萎んだ。これらが咲いていたときには、まだ地上十センチの幼芽だった後続が、今開花しようとしている。この A 地点の連中も、いつか B 地点付近へと移植せねばならない。やがて拙宅ではなくなる場所だ。
 こんな狭い敷地のわずかな環境差をも、彼らは敏感に感じ分けて、時間差をつけて順ぐりに咲く。