一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

谷中私景

〇 日暮里駅前

 駅前より、北方向(西日暮里・田端方面)を臨む。
 わが国でもっとも多くの線路をまたぐ橋のひとつとのこと。
 写真左手を山手と、右手を下町という。

〇 経王寺

 上野の山で戦があった。彰義隊の残党が経王寺に逃げ込み、かくまわれた。ために当寺は明治新政府軍から眼を付けられ、攻撃を受けた。そのさいの銃弾跡が、山門の扉に今も残っている。

 中学生たちは、人差指を通していちいち確認してみた。さすがにもう、ささくれ立ってはいなかったが、まだザラザラとしてはいた。今ではさらに風化が進んで、すべっこい穴となっている。六十年前の中学生の証言である。

〇朝倉彫塑館(台東区立)

 彫刻家朝倉文夫(1883 - 1964)の、アトリエ兼邸宅だった建物。作品と遺品の展示館にして、当時の間取りや調度や中庭がそのまゝ保存されている、最良のくつろぎ空間。
 アトリエに踏入ると、いきなり座布団帽をかぶった大隈重信侯の銅像が立っている。
「あれっ、こっちへ来ちゃってらあ。ってことは、キャンパスのほうは今は留守なのかぁ?」と早稲田出身者は一様に魂消る。よーく観ると細部が異なる、一連ではあるが別作品。なお舞台美術家朝倉摂さん(1922 - 2014)は娘。
 池のある中庭を囲んで回廊のごとき一階廊下を歩くと、入館口から一番遠いあたりに、上り框や式台のごとくに、一段下った箇所がある。旧玄関口だった模様だ。

 外から霊園のがわへ大回りすると、門構えや竹垣がある。この奥が旧玄関らしい。前方にアトリエの三階部分も見えている。今はさながら開かずのご門といったところ。もとはこちらが朝倉邸ご門およびお玄関だったと見える。現在の入館口は裏口および搬入搬出口だった模様。どうりで入館口の脇には、高さも間口も異様に大きい扉があった。

 広いひろーい谷中霊園の北西隅寄り、すなわち朝倉邸寄りに、まことに立派な朝倉文夫ご夫妻の墓所がある。お屋敷から歩いて五分以内で、墓参りに行ける。
 負けた。金剛院さまの墓地まで、私のよたよた歩きでは八分か十分を要す。それでも私くらい容易に墓参りできる幸せ者は、そうざらにはあるまいと密かに喜んでいたのだが、朝倉家の墓所は怖ろしいほどお屋敷から近い。鶯谷にも上野にも近くまで広がる、広大な谷中霊園にあってこの近さ。なるほど、桁が違うわい。

〇街のたたずまい

 ご先代から引継がれたとお見受けする、または親方のもとでみっちり叩き上げられたような、地元に根を張った匂いのするお宅が多い街は、好きだ。
 錻力? ブリキがオランダ語由来とは承知していたが、漢字でかように書き表すとは、不覚にも初めて知った。というより、漢字に変換するとか当て字するとかの気がまわらなかった。書かれてみると、好い字だなあと、感嘆のほかない。

〇街のお道具


 個人宅のお玄関先に、年代物の井戸ポンプがよく手入れされ、大事に保存されてある。そちらのお宅の自主作成とも窺える立札によると、街に大貢献した勇者の井戸でありポンプである。
 東京市東京府の水道行政が整備されるにつれて、古井戸は埋めるようにとお達しを受けた。いったんは行政指導に従ったものの、関東大震災だの大不況だのもあり、当時のご当主の自主判断で、井戸は掘り返された。そして戦局芳しからず昭和二十年三月十日の東京大空襲。このポンプが一世一代の大車輪。住民がた総出で列をなしてのバケツリレーで、日暮里駅前大通りまで燃え広がってきていた火を食止め、谷中の寺々やら木々やら、いくたの文化財への延焼を阻止なさったそうだ。お手柄井戸である。

 日暮里は戦後いく度か、再開発の波に揉まれた。電車路線が増えるとか、駅を改築して出入口を増やすとか、都市計画の一環で駅周辺の道路が整備されるとか。さらには高層ビル計画やら新幹線通過計画やらでは、地下深くまで工事の手が入ることもあった。さようなことが続いても、井戸の水脈が枯れることはなかったという。
 かつて谷中の緑を護った井戸が、今は緑の大群の力によって護られてあるのではと、ご当主は考えておられるご様子だ。

 表通りに面しているでもない、むしろ目立たぬ奥まった細道に面して建つ、今風のお洒落な個人住宅のお玄関先に、つまり門扉や塀の内側に、ミスマッチのごとくに井戸ポンプが佇んでいる。当代のご当主が、先々代や先代のご当主からなにを継承なさろうとお考えなのか、朧気に伝わってくるような想いが湧く。