一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

教養


 YouTube で観た、旅好きや撮り鉄の真似をして、レンズを向けてみた。学友が臨終を迎えていたその日、私は車中の人だった。

  若い友人の丹沢和仁さんと早帆夫人は富士山麓の忍野にお住いで、そこからの眺めはまさに霊峰を独り占めにするがごとき絶景だから、ぜひ観に来いとの、ありがたいお誘いをくださった。
 以前からのお誘いで、むろん絶景を間近にしたき想いは満々なれど、遠出すればとかく人さまにご迷惑かけかねぬ老身であるうえ、こゝ数年の疫病騒ぎ。条件整わずにグダグダと先延ばしになってきた。その間にも再三にわたり懇切にお誘いくださったばかりか、観光スケジュールから列車時刻表までご準備くださるご念の入りようで、今回ついにお言葉に甘えることになった。
 二日間にわたり、観光要所をお車にてご案内くださり、宵には夫人のお手料理のおもてなしに与り、まさにおんぶにだっこの大名旅行をさせていたゞいた。お礼の申しようもない。
 眼にしたことや受けた印象は、まことに数多い。それらが呼水となって想い出されたかずかずの記憶も数えきれない。情理を尽して記録するとなれば、かなりの枚数の紀行文とならざるをえまい。一朝一夕にはまいらぬ。それはいずれということにして、まずは、丹沢ご夫妻がご按配くださったよりもさらに外側で、私が勝手に視たものや脈絡なく想ったことから記録する。


 まずは列車。特急富士回遊、河口湖行き。初めて乗る列車だ。みどりの窓口での案内ボードにさよう書かれてあるから、買った。当日、新宿駅ホームにて列車待ちするあいだに、事情判明。十二輛編成で、一号車から三号車が特急富士回遊、河口湖行き。四号車以降は特急かいじ甲府へ行く有名な列車だ。大月駅で、三輛と九輛とに切離すらしい。

 八王子までは観慣れた風景。有名な古本屋がある街は漏れなく歩こうとみずからに課していた時代に、いく度か足を運んだ。有名店を効率好く歩こうと、たしか八王子から町田へ、初めて乗る線で抜けたのだった。
 そうそう、八王子市の教育委員会からご連絡があって、市民教養講座で北村透谷と雑誌『文學界』についてお喋りしたこともあった。駅前からかなりバスに揺られて、山の姿がたいそう美しい町まで伺ったのだった。あん時のお喋りはあまり巧くゆかなかった。ついつい私的興味に片寄って、戸川秋骨馬場孤蝶平田禿木といった脇筋に入りこみ過ぎてしまい、お客さまがお聴きになりたかったろう北村透谷や島崎藤村の噺が尻切れのまゝ時間が来てしまったのだった。

 高尾あたりから、風景も変ってくる。高尾山頂上の葦簀張りの茶店でビールを飲みながら、蛍をばら撒いたような東京の夜景を遠望したことがあった。あん時の仲間は、はて誰と誰だったのだろうか。はっきりしない。
 相模湖駅の思い出といえば、八月第一週の相模湖祭だ。提灯を点したボートを湖上に漕ぎ出して、両岸から頭上へ揚がる花火を観上げた。怖ろしいほどの爆音と煙、そして思考停止に陥る綺麗さだった。あん時の女性は、今消息を承知していない。
 藤野駅から歩いて藤野園芸ランド。野草の観察と採集の地だ。山採りの収穫を持帰ろうと血まなこになる初心者・中級者がほとんどの一行に混じって、登山靴を履いて装備万全の初老ご婦人が一人おられた。ひと握りほどのラッパ苔を小さな採集袋に収められ、「今日は大収穫!」とホクホク顔だった。ほかにはなにも採集なさっていない。初心者の眼に止るはずなどありえない珍しい苔を、お帰りになったら盆栽鉢の片隅にでも、そっと添えるおつもりなのだろう。なにごとによらず、上級者というものはあるものだと感嘆し、勉強にもなった。

 さて大月駅。車窓の鼻先まで山が迫って来るようだ。車輛切離し作業のために、五分近くも停車したろうか。私に憶えのある時代とは違う。ホームを見渡しても、釜飯売りがやって来ない。
 信越本線横川駅の、いわゆる「峠の釜めし」と並んで、中央本線甲州・信州へ向うとなりゃあ、まず大月の釜飯である。いや、かつてさようだった。苦笑がこみ上げる。
 以後中央本線と別れて、富士急線へと入る。未体験の路線だ。急傾斜を登りつゝあるのが、座席に腰掛けていても感じられる。等高線をたぐり寄せるように、うねうねと曲りながら登って行くようだ。
 速度が急に落ちた。「左手が富士山絶景ポイントです」と車内アナウンスが流れた。窓際にスマホが並んだ。帳面ほどの大きさのタブレットを掲げる外国人さんもあった。私はカメラを取出さなかった。なにせこれから、これでもかとばかりに富士山を見せていたゞく予定になっているのだ。

 それにしても、みどりの窓口のボードが示すまゝに「富士山駅まで一枚」とチケットオーダーしたのだが、富士山駅とはまた云うに事欠いてとの思いが、一瞬頭の隅を掠めた。この齢まで思いも寄らなかった駅名だ。そんな駅あったっけか……。
 座席に備え付けのラックに挟まっていたパンフレットをなんの目的もなく抜出して眺めるうちに、あゝっと思わず大声を挙げそうになった。これって、富士吉田駅じゃねえか、そんなら有名だ。迂闊に過ぎよう。駅名変更されてから、ずいぶん経っているらしい。私一人が、時代のそうとう後ろを歩いていたと見える。
 

 富士山駅のホームが、すでにして絶景ポイントだった。さすがに第一歩の想いも湧き、シャッターを切った。がそれよりも……。
 手洗いを済まそうかと脇通路へ寄ったところで、天井から一本、午前の柔らかい陽射しに輝く糸が垂れてきて、蜘蛛が歓迎してくれた。身の丈は十五ミリほどだが、手足を伸ばした姿は五十ミリにも届こうかという、拙宅周辺で見かける連中とは規模等級において、まずふた桁は違う大物である。感心して、なんカットも撮影した。そしてまた苦笑した。

 丹沢ご夫妻は、これより何百倍も貴重かつ偉大なものをこれから見せてくださろうと、細ごまお気を遣って、ご準備くださっている。それなのに俺ときたら、蜘蛛かよ。
 人は己の理解可能な範囲でしか、ものごとを理解しない。齢をとるとなおさらだ。教養とは知識量のことではなく、理解の容量のことであり、未知の事象を受けとめる柔軟さのことだと、昔教わった。どなたから、もしくはどんな書物から教わったかは、すっかり忘れてしまった。