一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

おもてなし


 丹沢家ベランダから望む、朝の富士である。手前は北富士演習場とのこと。

 一生涯ぶんの富士を眺めた。曲りくねった山道を登り降りするなかで、大きく湾曲するとまたもまたも、絶景ポイントがあった。いたるところ絶景だらけだ。
 宵は、暮れてゆく富士を眺めながら、ワインと早帆夫人によるお手料理に舌鼓を打った。ワインもお料理も満喫したが、富士の景観がなによりのご馳走ですとの、丹沢さんさんの事前触込みも、嘘ではなかった。

 食後に丹沢さんが、さてと立上るので、なにごとが始まるのかと思っていると、大きなスピーカーのついた大画面テレビになにやら接続している。コーラスが始まるという。
 ご夫妻は以前、鳥取県米子市にお住いで、夫人には地域のコーラスサークルのお仲間があったそうな。発表会のビデオを流しながら、ご夫妻の合唱ご披露である。本来の意味でなく、そのまゝ情景としての夫唱婦随、いや婦唱夫随だ。
 ♬ 狭霧消ゆる港江の~
 ♬ 春のうららの 隅田川
 なんとまた清らかな。雑木林の向うから、芦川いづみさんが走ってきそうだ。昭和三十年代の青春映画さながらである。格別のおもてなしだった。

 駅前まで戻ってビジネスホテルにでもと考えていた。お泊めいたゞいたりすれば、年寄りはご心配をおかけすることが避けられない。たとえば七時間休ませていたゞくとなると、夜中にまず二度はトイレに起きる。静かなお住いにあっては、ご迷惑さまだ。が、結局お心遣いに甘えて、痛み入るが一泊させていたゞくことになった。
 翌朝も奇跡のごとき快晴。七時に起き出して独りベランダで、朝陽に映る富士を眺める。地上はほゝ無風なのに、上空は強風と見えて、雲の移り行きが眼を瞠るほど速い。八時半まで、ほゞ十五分ごとに六枚の富士と雲の関係をカメラに収めた。

 昨夜の婦唱夫随の情景をカメラに収めるべきだったかと、後悔した。
 つね日ごろ私は、人物にレンズを向けることがめったにない。風景かブツ撮りばかりだ。人の姿を撮れば、責任が生じる。整理も怠れない。私が死んだあと、これは誰だろうと詮索される場合だって生じるかもしれない。
 心理であれ関係であれ、暮しぶりであれ人生観であれ、人間模様全般にわたって興味はある。人さまの平均より関心強いほうだろう。それが商売だと申してもよい。
 情景なり物体なりから、生きた人間を想像するのは好きだ。が、眼の前においでのかたを撮影させていたゞくことによって生じる責任に、自分が果して耐えられるものかどうか、にわかには自信がもてない。

 だが、帰宅翌日に丹沢さんがご送信くださった写真には、丹沢さんと私、夫人と私の姿が写っている。ご夫妻とも笑顔だ。色艶のないジジイが並んでいる。歯抜けのため口元が汚いから口を閉じようとしたものか、そうなると不機嫌に口を閉じた表情になりかねぬと思って無理に微笑もうとしたものか、なんとも中途半端で情ない顔つきの年寄りが写っている。これが紛れもなく、今の私だ。やはり人物像を撮影しておくべきなのか。

 丹沢家のお玄関口側にも、富士と反対方向の山が迫っている。一か所刈り払われた部分があった。急峻高地に別荘地造成でも霊園開設でもあるまい。ゴルフ場建設の時代でもなかろう。お訊ねすると、茅の刈り跡とのことだった。
 伝統的な茅葺屋根を維持したい地域はまだ全国にあって、それにひきかえ良質な茅を安定供給できる産地はさほど多くないとのこと。白川郷はじめ有名な茅葺屋根にも、こゝから茅材が出て行くそうである。
 茅の育成と収穫を業とする山農家かぁ。どんなお気持で、この時代を眺めておられるのだろうか。茅の育ち具合を、いかなる想いで日々視詰めておいでなのだろうか。
 勝手な空想はとめどない。かような風景に、私のセンサーは幾重にも反応するようにできている。一生涯ぶんの富士を見せていたゞいた。同時に、生れて初めて、茅の刈り場というものを見せていたゞいた。