一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

霊山


 山を観ると、偉いもんだなぁと思う。樹齢なん百年という巨木を観ても、偉いもんだなぁと思う。理由があって偉いのではない。文句なく偉いと、じかに感じる。

 一泊旅の目的の第一は、久びさに丹沢ご夫妻と面談することだった。昔、早稲田の第一文学部と第二文学部、それに日大の藝術学部と三学部掛持ちで、学生諸君の話し相手というお役目を拝していた時期があった。最低義務の時間が済めば、喫茶店だろうが酒場だろうが、寄り集る有志諸君とは、とことん付合った。
 古本屋を冷かして歩くという、なんとも暢気な散歩サークルを主宰してもいた。そこにも意欲ある諸君が参集してくれた。学部や大学の垣根を取っ払った、若者同士の交流が盛んになった。教室へ通うだけだったら成立しなかったはずの出逢いも、おうおうにして発生したらしい。当方はいちいち承知してはいなかったが。

 ご夫妻もそうしたカップルだったそうだ。異なる学部に在籍していたところを、わたしが引合せたのだと、丹沢さんは主張してやまない。とんでもない。私の与り知るところではない。勝手に視染めあったものを、私のせいにしないで欲しい。
 ともあれさようなご縁を多として、今もご親切にお声を掛けてくださり、ひととおりでない歓待をしてくださる。ありがたいことだ。
 公務員として数度の転勤を経験され、民間会社に移籍されてようやく落ち着いたさきが富士山麓だった。これまでの任地に較べれば、圧倒的に近い。で、当方もいつまで身動きできるものやらおぼつかぬ老身ゆえ、今一度お会いしておこうとの気分だった。

 旅の第二目的は、富士山を心ゆくまで眺めることだった。現役社会人だった時期は、出張で東海道新幹線に乗れば、三島を過ぎるころから、右手には嫌でも威容が望めた。飛行機の窓から噴火口跡を眺めおろしたことも多い。けれどもう長いこと観ていない。今後もまず、機会は訪れまい。
 これが富士の観納めという、私なりの覚悟で、ご夫妻のご親切に甘えることにしたのだった。

 が、実際の富士吉田の街は、そんな生易しいものではなかった。ちっぽけな感傷や、暢気な観光気分で歩けるような街ではなかった。大霊場たる霊山への参詣者が、いざいよいよと、改めて覚悟を固め気を引締め直すための街だった。古来幾多の日本人が、さようにしてきた街だった。
 ご案内いたゞいたなんか所かの浅間神社は。いずれも鬱蒼たる巨木に囲まれて神気充満の気配。これより先は霊山と、参詣人に向けておごそかに告げくだしていた。
 森間の滝にも、たまたま立寄った天台宗の古刹にも、身の引締まる想いを誘う空気が漂っていた。


 浅間神社の祭礼には、二基の神輿が縦列するそうだ。本宮たる諏訪大社の、宮型神輿に金色の提げものがふんだんに吊下げられた神輿が先導し、地元浅間神社の、台座に富士山がどっかと据えられた神輿が続くという。それぞれの浅間神社で観光客に供された二基を拝観できた。
 ある観光施設の受付では、パンフレットの付録として、地元に伝わる折紙細工の富士山をいたゞいた。標高四センチの紙富士。私にはまことに似つかわしい。気に入った。

御師旧外川家住宅、縁側。

 その昔、霊山への道筋には、こゝで俗塵を払って身を清める祈祷所にして宿坊をも兼ねた、御師(おし)と称ばれる旧家が、いく軒もあったという。うちの一軒が観光施設として公開されていた。「ふじさんミュージアム」の分館と位置づけられてもいた。
 お伊勢さんではたしか、オンシと発音されていたと記憶する。豪壮な日本家屋である。霊山参詣者が引きも切らぬ季節には、座敷では足りずに六尺の広縁一杯に床を敷詰めて休んだという。
 わずか一泊二日の旅とはいえ両日とも、当地にお住いの丹沢ご夫妻でさえ、これほどの富士眺望はめったにないと相好を崩されるほどの、好天に恵まれた。いく代か前の先祖が、村内の講中を取りまとめて、たびたび訪れては、御師のお宅に大枚の祝儀を弾んであったご利益だろうと、なかば本気で思わぬわけにはゆかなかった。