一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

いったいどこに

堀田善衞(1918 - 98)
『堀田善衞自選評論集』(新潮社、1973)より無断で切取らせていたゞきました。

 『インドで考えたこと』(岩波新書、1957)について、まだあれこれ考えている。締切りも課題もなくなった身の幸せで、同じところを往ったり来たり、心ゆくまで堂々巡りしていられる。

 農村地帯を観てみたいと思い立った堀田善衞は、バスを乗り継ぎ乗り継ぎしての旅に出た。ガンジス・インダス両河岸に時おり村があるだけで、あとは広大無辺の砂漠地帯だ。日干し煉瓦を積んだ箱のごとき家には窓もなく、家財道具も鍋ふたつと壺ひとつ程度。河はあっても、ひとたび大雨が降れば、眺め渡す限りの洪水となる。
 食糧も乏しいが水もない。どうしているのかと、バスに乗合せた青年に訊ねると、井戸があると云う。牛が日がな一日井戸の周囲を回って水を汲み上げ、壺に受けた女たちが担いで砂漠に水撒きしている。気の遠くなるほど非効率的な灌漑作業だ。
 同時期に書かれた梅棹忠夫「文明の生態史観序説」(後年まとまって『文明の生態史観』中央公論社、1967)では、同じ事態をかように記す。日本の国土の半分にも及ぼうかという面積が水浸しになり、なん百万人が飢える状況なのであって、日本の常識で想像できるような災害規模でも貧困問題でもないと。

 バスの青年から、日本へは中国から汽車で行けるのかと訊かれ、行けない、日本は島だからと、堀田さんは応える。なぁんだ、セイロン(今のスリランカ)のようなものだなと認識される。それより灌漑はとこちらから訊ねると、そのうちネルーがやってくれるさ、との応えが返ってきた。今は貧乏だが、五十年後には我われだってと、貧困に怯む気配はない。
 日本人は五十年後の自分と祖国とを念頭に置いて暮しているだろうかと、堀田さんは胸を衝かれる。そしてインド民衆の中華思想というか根拠なき自信は、中国人ですら比べものにならぬほど凄まじいと、おりおりの場面で痛感させられた。
 その点について梅沢『生態史観』では、インド人の前でインド批評をしないほうがよろしいですよと、先達から忠告された経験が記録されてある。そして中華思想については、文明の発祥地となったことがある国と、周辺の被影響民族だった国との根本的相違と考察してあった。

梅棹忠夫(1920 - 2010)

 同じバスに乗合せた老人の姿が、忘れられない。青年とは違って、無邪気で傍迷惑な中華思想を振回したりはしない。国際情勢にも詳しいようだ。五十年前には国民会議の運動に参加して、いく度も投獄されたという。つまり運動家時代のガンディーやネルーチャンドラ・ボースを身近に知っていた老人ということだ。
 「ハンガリー人はじつに大馬鹿野郎だ」と老人は吐き捨てるように云う。おりしも世界情勢について時の話題はハンガリー動乱だった。ソ連の横暴圧力に抗って、自由独立を勝ちとるべく蜂起した民衆を、ソ連が軍事介入して鎮圧した事件だ。
 「社会主義体制を敷いて、最低限飢えずに済む世の中になったのだから我慢しておればよいものを、たった五年で蜂起しおった。インドを視よ。今から五十年我慢して、飢えぬようになろうとしておるのに」
 堀田さんはむろんソ連の横暴に憤り、ハンガリー人に同情的だ。それ以外に考えようはありえないと思っている。が、老人の言には衝撃を受け、想いに沈まざるをえなかった。遅々として進まぬインド近代化の実情が眼の前にあるというのに、五十年後に生きているとは思えぬ老人の、この忍耐力というか自信というか、いったいこれはなんだろうか。

 同じ問題を、梅棹さんはかように云う。インドの不変は大岩のごとき盤石である。日本の近代化成功は回転する独楽のごとき安定である。回転を停めたらコケてしまう。
 堀田さんはインドで、アジア作家会議の事務局担当として、連日の業務に忙殺されながらも、しきりと夏目漱石の文明批評を思い出している。民族の心性の深くにまで根付かせる間もなく、万事上滑りに西洋模倣してゆかざるをえぬ日本の宿命を嘆いた、漱石の日本批評である。日本および日本人を非難しているわけではない。そのように発展して行くほかないと、漱石は慨嘆しているのだ。というより諦観か。
 堀田善衞自身がその一員でもあった戦後文学史の用語で申せば、主体性回復の問題だ。高く掲げられながらも、うやむやになったまゝ今に至っている問題である。教育という名の、若者への伝言の現場にあってさえ、さような課題がかつてあったことに言及されることすらないのではあるまいか。

 「こゝがワシの村だ」と老人はバスから降りて、丘陵の彼方へと歩み去った。一面の砂漠風景だけがひろがる丘陵地帯の、いったいどこに村があるというのか、堀田さんの眼には見えなかったとある。