一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

二で割るわけにも

小田 実(1932 - 2007)
『「べ平連」・回顧録でない回顧』(第三書館、1995)より無断で切取り。

 世界中どこへでも、だれが相手でも、容赦なく自分を押出してゆける人とは、なるほどかような人のことか。それが感触・印象のすべてだった。

 一度だけ小一時間ほど、小田実という人と同席したことがある。「野間宏の会」だった。他界した戦後文学の巨人を偲び、業績を研究したり資料を整理したり、遺徳や逸話を語り合ったりする、関係者や研究者や愛読者の集りだ。藤原書店の肝煎りで年一回の総会が催されていた。私は一番隅っこの会員だった。
 毎年の総会では、研究者による新研究報告やゲストによる講演といったプログラムが組まれていて、ある年のゲストとして、小田実さんが登壇されたのである。小説家としては戦後派文学の後裔と目される小田さんのことだから、野間宏中村真一郎について語られるものと、誰しもが思ったことだろう。ところがフタを開けてみたら、頭から尻尾まで、ロンギノスについてのお噺だった。

 ロンギノスとは、一世紀ころ、ローマ帝国下にあったギリシア人の文芸評論家である。実名ではない。というか本名が伝わっていない。三世紀アテネの学者ロンギノスの著作と、ある時代まで誤伝されてきた著作『崇高について』が、ギリシア古典文学論最初の傑作として、ということは取りも直さず西洋文学評論の源流と評価されてきた。研究が進んで、ロンギノスの筆によるものではないと、明かになったのである。時期が違い過ぎる。ではだれによって書かれたのか。だれも知らない。今さら知るすべがない。
 しかたなく、偽ロンギノスとか「ロンギノス」などと表記されている。「いわゆる、世に云う、例の」といった表記だ。

『崇高について』(河合文化教育研究所、1999)

 小田さんは学生時分に、このロンギノスと出逢い、いたく興味を惹かれたという。そのまゝになっていたのを、晩年に差しかゝったこの時期、もう一度じっくり取組まれたとのこと。『崇高について』私訳に自らの評論を添え、小田実と「ロンギノス」の共著という、意表を衝いた(あるいは人を食った)形態のご著書を出された。
 野間宏の会の講演は、そのご著書脱稿のころだったか刊行のころだったか、とにかく頭のなかはロンギノス一色で、なにを考え始めてもロンギノスに帰着してしまうといったご様子とお見受けした。野間宏の会の善良会員がたも、狐に抓まれた顔つきだった。

 さて最終プログラムである懇親会。立食パーティーである。八人以上で囲める大きな丸テーブルがいくつも配置された、出席人数の割に広過ぎる会場だった。埴谷雄高初代会長が亡くなられて二代目木下順二会長の時代に入っていたが、あいにくその年は木下会長が所用でご欠席。小田さんと釣合うほどの有名人がいない。小田さんが立つテーブルに人が行かないのだ。
 野間未亡人を囲む所縁あるかたがたのグループ。お話し上手な針生一郎さんを囲む芸術家グループ。福島大の木村幸雄さんや日大文理学部紅野謙介さんら戦後派文学研究の大学人グループ。それに他作家にない野間文学の特色だが、環境問題や同和問題など社会運動にご関心あるグループ。それぞれが寄り集って談笑し、ゲストの小田さんは独りぼっちだ。
 慌てたのは司会進行役の藤原書店だ。細かいヒソヒソ噺のあれこれがあって、つまりは遠慮物怖じしないタチの私が、場違いな上座のテーブルへ伺うことになってしまった。後年いかに思い起しても、筋道の解らぬなりゆきだった。

 名乗ってご挨拶。学生時分にご著書から多大の刺激を受けた報告とお礼。ロンギノスについて、二三の質問。さて、話題が尽きてしまう。たまたま鶴見俊輔さんのご著書を少し丹念に読んでいるころだった。鶴見さんといえば、かつて小田さんとべ平連を立上げた盟友である。
 ―― 鶴見先生は、小田先生をこんなふうに褒めていらっしゃいましたが。
 ―― 鶴見俊輔ぇ、ありゃ馬鹿だ!
 それで了ってしまった。どう展開してみようもない。むろんお二人が反目しあっていらっしゃるとは思えない。「馬鹿」は親しみの表現にちがいない。今さら語るにも及ばぬとのご意向だろう。それよりなによりゲストを前にして、他のかたのお名を出したこちらが悪い。礼儀にもとる。
 しかし当方にも、噺の接ぎ穂という事情があったのだ。が、一言のもとに断ち切られてしまった。世間噺も失礼だろうから、あとは酒をお勧めしたりして過した。緊張したり委縮したりはせぬタチだが、それでもなかなかの小一時間だった。たいした迫力だなとの手応えは、嫌というほど残った。

『何でも見てやろう』(河出書房新社、1961)

 なぜ小田さんとのひと幕を想い出したかというと、堀田善衞の『インドで考えたこと』がまだ頭にあるからだ。昨日書いた、「ハンガリー人はじつに大馬鹿野郎だ」と吐き捨てるように云った老人の件である。
 あまりに有名な小田さんのデビュー作『何でも見てやろう』に、かような一節がたしかあった。アメリカでもソ連でも、不遇をかこつ同世代をつぶさに観察して帰った、日本人小田青年の目撃談である。
 ―― アメリカ青年は云う。ソ連人は愚かだ。少しばかりの食糧を大事として、自由も人権もおろそかに考えていると。いっぽうソ連青年は云う。アメリカ人は愚かだ。自由だ人権だと眼に見えず手にも取れず、腹の足しにもならぬ観念を大事として、食糧の安定を軽視していると。

 政治経済の実情が、歴史の来しかたが、ひっくるめて申せば文明の局面が異なるといえば、それまでだ。が、双方の思考の中間に頃合いの落し処があるかといえば、そういう問題ではなさそうだ。足して二で割るというわけにはゆきそうもない。
 平和主義は折衷主義でも妥協主義でもなかろう。平和主義は右翼左翼とは無関係だ。平和主義は民主主義とは次元が異なる。たゞし平和主義と民主主義とは双方並んで、戦後思想の二本柱だ。ということを小田さんは、生涯かけておっしゃったと、私は勝手に理解している。