一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

主体意識

大島渚(1932 - 2013)

 弁も筆も立つ映画監督だった。声の大きいかただった。しかも美声だった。長身で美男子で、どの点から視ても説得力のあるかただった。

 高校生時分から学生時分へかけて、作品からも発言からも眼が離せなかった映画監督を一人となれば、大島渚さんを挙げるしかあるまい。同感くださる同世代は多いのではないか。
 大島映画を観たあと、友人間で議論するというのは、学生にとっての基本教養のひとつですらあった時代だ。深く影響を受けて、信奉者となった仲間も一人二人ではない。映画作品のみならず、雑誌への寄稿やテレビ出演も多く、文字どおり時代の潮流を牽引する一人と目されていた。
 私はと申せば、映画作品もむろん観ていたが、加えて活字化された大島さんに、ひそかに注目していた。単行本として刊行されたシナリオ集であり、映画専門誌や新聞雑誌に発表された文章を寄集めたエッセイ集などである。

 当時小説家による、書名に『○○の思想』と銘打ったエッセイ集が、ちょいとした流行になっていた。エッセイだから、小説作品集からは漏れてしまう。ほとんどは雑誌新聞からの求めに応じた文章だから、長いものは少ない。狙いすました主題を深く追求したものでもない。僭越に申せば、半端記事やガラクタ原稿の類だ。放っておけば忘れ去られてしまい、全集を編むさいにも割愛されてしまいかねぬ文章ばかりだ。
 が、いかにガラクタとは申せ、嘘偽りが書かれてあるわけではない。ごっそり寄集めて山盛りに積上げれば、そこから作家の思わぬ横顔が浮びあがってもこよう。作品からは窺えぬ作家の素顔が垣間見えることすらあるかもしれない。といった狙いの企画群だった。
 小田実『戦後を拓く思想』、安部公房『砂漠の思想』、開高健『饒舌の思想』、高橋和巳『孤立無援の思想』、小松左京『地図の思想』、杉浦明平『哄笑の思想』などがすぐさま思い出される。まだまだあったはずだ。いずれも文学出版部門をもつ大出版社での企画だった。
 幼い文学読者だった高校生の私は、まさに企画者の狙いどおりに、解るものも解らぬものもかたっぱしから読みながら、徐々に作家の息遣いや肌触りに触れていった。

『魔と残酷の発想』(芳賀書店、1966)

 小説家で企画成立するなら、映画人ではどうだとばかりに、大島渚さんの『魔と残酷の発想』が出た。書名はちょいと捻って、「思想」が「発想」に変っていた。これを機に、書名こそ「思想」でも「発想」でもなかったが、映画人たちによるエッセイ集刊行もあい継いだ。
 小説家は大出版社に任せて、より反体制色が強くサブカルも得意な芳賀書店三一書房などが参戦した。石堂淑郎『怠惰への挑発』、小川徹『橋の思想を爆破せよ』、斎藤龍鳳『遊撃の思想』、松田政男『テロルの回路』などが記憶に残っている。

 『魔と残酷の発想』なる書名は、おりしも『白昼の通り魔』が公開された直後だったし、過去の話題作として『青春残酷物語』が知られていたからだったろう。
 収録された『〈純粋戦後派〉の登場』という文章に、ことのほか注目した。大島さんと同齢の石原慎太郎小田実を比較し、さらにご自分とも比較して見せた世代論だ。
 デビュー作『太陽の季節』で社会現象をまき起した学生作家石原慎太郎は、己の体感欲求のまゝに繰出したパンチが、たまたま世の中にクリーンヒットしてしまった作家だ。身の内にエネルギーは充満し、なにかやらかしたい欲望でウズウズしていたものの、なにを為すべきかは掴めていなかった。大人になるころにはすでに戦争は済んでいて、たち向う敵も見当らかった純粋戦後派であって、使命感など抱きようもなかった。かような想いを「擬似主体意識」と大島さんは名付けた。
 描き出されたのは、身は大人でも、歴史にしっかり所属する人格たりえず、自分を持て余している青年像だ。多くの読者に歓迎されて、作者は時代の象徴にまで祀り上げられた。

 それよりも前に、関西にはもっと早熟な高校生作家小田実がいた。が、処女作はクリーンヒットしなかった。上京し大学進学。卒業後アメリカ留学。まっすぐには帰国せず、大西洋を渡って世界一周の貧乏旅行。帰国後その旅行記『何でも見てやろう』が記録的ベストセラーとなった。世間へのデビューは石原より五年遅れたが、石原が無自覚だったのに対して、小田は世界の実情の目撃観察をとおして、みずからが「擬似主体意識」の持主であることを自覚して作家スタートを切った。
 とまあ、大島さんは規定して見せる。たしかに両作家のその後の作風や仕事ぶりや、政治思想的立場を考えると、説得力ある規定ではある。
 で、両作家と同齢の大島さんご自身はいかがであるかと申せば、「私は今もなお、選ぶべきは主体者の立場のみと思い定め、しかもそれへの道遠く歩むばかりなのである」とのことだった。

 お三かたでさえ擬似主体者というのであれば、私などさらにいく重にも輪をかけた擬似主体者だし、現在となっては日本国民のほとんどが擬似主体者だろう。
 さような時代になってみて、改めて考える。歴史の主体者の一人であるとは、いかなることか。いかなる個人も歴史の枠から出られはしないのだし、逆に自分が歴史を体現しているなんぞと大風呂敷を広げることもできなかろう。逃れられぬし、弾き出されてもある。主体性を回復するとか、貫くとは、本来いかなる生きかたのことだったのだろうか。
 「ここがワシの村じゃ」と堀田善衞さんに云い残して、砂漠の丘陵の彼方へと還っていったインドの老人の内面が、どうしても気になってしかたない。