一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

けっこうな時間

高井有一(1932 - 2016)
『新潮現代文学74  高井有一』より無断で切取らせていたゞきました。

 高い処から物を云うようではしたないが、用語用字に疑問のない作家、昭和・平成で日本語がもっとも安定していた作家はと問われると、この人を想い出す。

 純文学一本で生涯ブレのない、玄人受けの地味な寡作小説家と、高井有一は思われているかもしれない。いかにもさようと見えて、寡作という点だけは当っていない。数えてみると、作品は少なくない。濫作期こそなかったが、生涯途切れることなく孜々として書き抜いた作家だ。
  父は画家田口省吾。祖父は明治の小説家・劇作家にして美術評論家の田口掬汀。大正・昭和期には美術界の人として、東京府立美術館(今の都美術館)開館に参画したりした人だ。が、それらのことはいずれ。
 高井さんは、ご両親を早く亡くされた。祖父も父も戦時中に他界。母は戦後、疎開先の東北地方で入水自殺。孤児となった高井さんのご苦労は、おいそれと想像しうる程度のものではなかろう。出世作にして芥川賞受賞作『北の河』が題材としたのは、ご母堂入水の一件。が、それらのことはいずれ。
 多くの高井作品は、ご自身または周辺人物や事実を題材としている。とはいえ、私小説ではない。事実そのまゝに投出す技法を避けるに潔癖だった。が、それらのこともいずれ。

 したがって高井さんに、自叙伝的私小説というものはない。そのことに隔靴掻痒のもどかしさを感じる読者に向けては、無類に興味尽きぬ一書がある。全著作を並べ眺めてみても、異色の一冊である。

『昭和の歌 私の昭和』(講談社、1996)

 『昭和の歌 私の昭和』は、『短歌研究』に連載された読物をまとめたもの。
 『昭和萬葉集』とは、昭和の始まりから半世紀間の時局事象が詠い込まれた短歌を、玄人歌人の歌集から無名歌人の新聞雑誌投稿歌まで広く索捜して、項目ごとに束ね時代順に配列した全二十巻。
 たとえば敗戦詔勅の日、歌人ナニガシは心境をこう詠んだ。同じ日に○○県のソレガシさんはこんなふうに詠んでいる。総体として、時局に直接関われずたゞ一方的に影響のみこうむった庶民の視線から眺められた、昭和史が浮びあがってくる。
 高井さんはこれを劈頭巻から味読しながら、あゝこんなふうに感じた人もあったのか、自分はそのときこんなふうだったと、感懐を添え記していったのである。作者ご自身すら意図のほかだったかも知れぬが、結果として高井さんの精神的自叙伝といった様相をなす一書となった。

 戦前戦中とはガラリと変った戦後派などと、巷間大声で云われても、高井さんはかように回想している。
 ―― 戦争に対して自覚的でなかつた私たちの世代では(略)「敗戦を傷む者」は私たちの周りにもゐなかつたが、戦中と戦後のけぢめは曖昧で、むしろ一続きのものとして捉へ、時代が変つても、人間はさう簡単に変わるものではない、といふ意識の方が強かつたやうに思ふ。

 また昭和三十年(1955)、『太陽の季節』による石原慎太郎の登場。「太陽族」の大流行が社会現象を巻起した時代については、こうだ。
 ―― 私自身は石原慎太郎氏と同年齢だが、ずつと遠い位置にゐた。(略)「太陽の季節」に刺戟は受けなかつた。さんざん弄んだあげくに死なせてしまつた愛人の葬式に主人公が現はれ、「馬鹿野郎っ」と叫んで香炉を遺影に投げつける場面を読んで、やけに身振りの大きい通俗な話ぢやないかと思つて(略)今もつて私は、石原氏のいい読者ではない。
 直接謦咳に接する機会はなかったから、お声も物腰もお人柄も存じあげない。文章と作風から察するに、軽々に人を批判したりなさる作家ではない。そのかたの筆から出た「今もつて私は、石原氏のいい読者ではない」を聴いた瞬間、これはドスが利いてると、背筋に冷感が走る想いだった。


 昭和三十五年(1960)六月の国会議事堂前、樺美智子さんが亡くたった日、高井さんは取材記者として現場にいた。同僚記者がデモ隊の中からとある助教授を引抜いてきて、現場レポートを書けと原稿用紙を突きつけた。助教授はボールペンを執り、いきなり「血の弾圧!」とタイトルを書いた。脇でこれを視た高井さんは、同僚のスクープかもしれないが、「こいつはいけない」と感じた。
 『昭和萬葉集』から二首が引用される。一首は、慣れないデモに疲れ果てて寝込んでしまった夫を詠んだ妻の歌。もう一首は、デモに行く弟のために、早起きして飯を炊く母を詠んだ兄の歌。
 ―― このやうな歌が、私には近しく感じられる。時代を動かすのでなく、時代に動かされる人びとの姿が見えて来るやうな気がする。

 一方的に時代の大波をかぶるばかりで、揺れ惑いながら右往左往して生きてゆくほかない読者を念頭に、さような人物と物語とを書いてきたのが、まさしく高井有一文学だった。
 『昭和の歌 私の昭和』が刊行されたのは平成八年(1996)だ。高井さんと同齢の石原慎太郎小田実大島渚とが織りなす三角形を、遠くに、じつに遠くに眺められるようになるまでに、私はけっこう時間を要した。