一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

第一地帯

梅棹忠夫(1920 - 2010)

 堀田善衞がアジア作家会議に出席するためにインドを訪れたのは昭和三十一年(1956)だが、その前年に、梅棹忠夫京都大学カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊の一員として、アフガニスタンからパキスタンを経てインドへ入っていた。ほゞ同時期に二人がインドをつぶさに観察および体験したことは、後年から思えば巨きかった。

 『インドで考えたこと』(岩波新書、1957)のなかで堀田善衞はたびたび、憂鬱になったりヒステリー症状を起しそうになった自分を告白している。あまりに広大にして、あまりに複雑。猥雑と云ってもいいほど無限定かつ無際限な様相に、日本人としてなにからどう考え始めたらよろしいか、途方に暮れる毎日だったからだ。
 日本人の先祖は国家の建付けを模索し、文明文化の基礎を策定すべく、この国発祥の思想・宗教を大胆に採り入れた。伝播の途上で中国化されて、日本人の口に合うようにこなれていたことだろうが、それでも源流はこゝだ。なにがしかの親近性を感じることはあるだろうと、堀田さんは眼を皿のようにした。ことごとく裏切られる。というか突き放される。改めて考え込まざるをえなかった。

 思い当った。インドが頑迷なのではなく、当方が恣意的に過ぎるのではないかと。E・M・フォスター『インドへの道』を参照しながら、インドについて考えた西洋人の思考方法を思い出す。多くの点に納得がゆく。
 そこで気づく。いつの間にか、西洋人の眼でインドを観ている自分がいる。だが自分は西洋人ではないし、西洋のことなんぞろくすっぽ知らない。で、さらに気づく。日ごろから自分には価値判断の基準や美意識に二重性があったと。
 鎌倉の大仏を観たって、グロテスクだなぁと心の隅で感じる自分がある。ありがたい、偉いもんだと感じる自分もある。天皇という人があるということがグロテスクと感じる自分があり、それが日本だと承知している自分がある。
 ひっくるめて申せば、合理的に考えようとする近代人の自分と、なにやら腑分けできぬ異様な日本人の自分がある。貧困、人口過多、雑多、猥雑、不衛生、非能率そして広大無辺。インドをさように眺める自分とは、いつの間にか西洋人の眼でインドを観ている自分なのではないか。異様に見えるインドは昔も今も、一貫してアジアのインドであり続けているだけではないのか。

 似たことを梅棹忠夫も考えた。都市の人口密集や、驚くべき非能率的方法で道路普請するありさまや、暮す人のすぐ横に死がある様子など、『文明の生態史観』(中央公論社、1967)が報告する市中のリポートのいくつかは、『インドで考えたこと』と酷似している。インド人の恐るべき中華思想を指摘した点も同様だ。
 『文明の生態史観』で報告された梅棹観察および提言は、まさしく眼からウロコの連続と申すべく、刊行後半世紀を経た今も、比肩するものなき名著であり続けている。なかでも、とあるインド人青年が冗談半分に云った「我われは中洋人なのですよ」との名言に、梅棹さんは激しく同意する。
 東洋西洋という区分は、西洋人が設定した。自分らより東は皆東洋と、便宜的に云ってみたに過ぎない。その視かたが世界標準がごとき顔をしている。が、実態に即せば東洋・中洋・西洋ではないか。その着眼からさらに梅棹さんの考察は進み、ついにはユーラシア模式図を次のように引いて見せた。有名な A 図だ。

『文明の生態史観』挿画

 横長の楕円がユーラシア大陸。左右の海上に浮ぶ日本と英国を含む。地中海沿岸の北アフリカをも含む。作業仮説(思考の整理)の模式図だから縮尺のいい加減はご容赦いたゞくとして、左右両端の半月形が日本と西欧。合せて第一地帯。頭と尻尾を切取った胴なかの広大部分を第二地帯とする。
 第二地帯は文明史的に考えると、襷型バッテンのごとき境界線にて四分割される。Ⅰ が中国世界、Ⅱ がインド世界、Ⅲ がロシア世界、Ⅳ がイスラム世界だ。第二地帯の特色は、右上から左下にかけて境界線を挟んで苛酷な乾燥地帯が広がっていることだ。右上はシベリアのツンドラ、中ほどは天山山脈チベットヒマラヤ山脈、左下はサハラである。

 四大文明はすべて第二地帯に発生した。苛酷な自然環境のもと個人や家族では生延びられない。人間十人で食糧五人前しか生産できなければ、対処方法は限られる。全員半人前づつ食って我慢するか、五人が食って五人を追放するか、だれかが総取りして恣意的に分配するかだ。戒律が必要となり、宗教が発生する。集団化し、権力が発生し、国家が形成される。
 中世までは第二地帯が先進地域。第一地帯は後進地域だった。生存環境が整った第一地帯には、国家の建付けも制度設計も喫緊ではなかったのだろう。が、生活向上意欲が芽生え、やがて産業革命はじめ技術革新の時代ともなれば、立場は逆転することになる。

 封建制という各地域自給自足原則が発生し、余剰生産物の交易が重要視され、自由競争の観念が発明され、世に云う近代国家が出現した。
 封建制度は第一地帯でのみ成立した。産業革命と民主主義も第一地帯でのみ起った。一人の独裁者に権力を集中させて無数の民を服従させる、中世的中央集権制を脱しえなかった第二地帯は、後進地域へと沈んでいった。第二次大戦以前までに、植民地というものをもった経験ある国は、すべて第一地帯に属している。

 日本人はどこから来たかというような、由緒由来の問題ではない。自然環境や地政学的見地から、国家の建付けや制度設計や価値意識や美意識、ひっくるめて文明文化のデザインを考察すると、さようになる。梅棹さんの考察が歴史学ではなく、文明文化の「生態学」たる所以だ。
 そうなると、アジア東端の日本だけが、なぜいち早く西洋文明を摂取しえたかとの歴史学的疑問に、ひとつの解答例が提示される。日本はもともと西欧と似ていたのだ。模倣するに容易な条件を持合せていたのだ。繰返すが、その由来について西欧と日本とは似てなどいない。形態が似ていたと申すまでのこと。

 『文明の生態史観』A 図の説得力は圧倒的だった。インドの実情に言葉を失って呆然と立ち尽す堀田善衞さんに、もしもこの図が提供されていたなら、堀田さんの憂鬱もヒステリーも少しは軽減されていたかもしれない。が、出版の順序は逆だった。