一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

往ったり来たり

正宗白鳥(1879 - 1962)

 お見事な齢のとりかただ。真似などできようはずもないが、ひとつの理想ではある。

 正宗白鳥は読売新聞(当時は文化芸術の新聞)に就職して、文芸時評や演劇時評や美術時評を書きまくった。偶像破壊者と称ばれた。他人が崇めるものをぶち壊しにするような、身も蓋もない辛辣な批評を繰返したからだ。評判の記者だった。
 世は尾崎紅葉はじめ硯友社系作家が隆盛の時代。小説など書く気はなかった。内村鑑三徳富蘇峰になら興味はあったけれども。国木田独歩が出てきて、これも小説だという。それでよろしいのなら、俺も書いてみようかという気になった。
 自然主義文学作家の一人と目された。人生ありのまゝ、ひと皮剥いた人間の正体、といった表現を標榜したからだ。が、俺は果してさようなもんだろうかと、ご当人は疑っていた。島崎藤村をも田山花袋をも尊重はしたが、同志と思っちゃいなかった。俺とはだいぶ違うようだと、内心思っていた。世間では自然主義文学ともてはやしてくれるから、放っておいた。そのほうが原稿も売れる。

 文学至上などとは、露ほども思わなかった。若き一時期、徳富蘇峰に熱中して歴史上の人物たちに興味を抱いたが、やがて離れた。内村鑑三に熱中してキリスト教の洗礼も受けたが、これもやがて離れた。棄教である。人間とはなにものか、人生の値打ちとはなんぞや。それが第一義であって、文学者としての盛名に興味はなかった。職人気質も持合せなかった。巧い拙いは鋭敏に読み分けられたけれども、巧けりゃ良いってもんじゃなかった。
 芸術家気質もなかった。稿料が取れるから書いた。戦時下に発表のあてもない『細雪』を孤独に書き続けた谷崎潤一郎など、白鳥には信じがたかった。戦火の中を日記帳の束だけ抱えて逃げまどい、書き続けた永井荷風など、白鳥には思いも寄らぬことだった。

『懐疑と信仰』(講談社、1968)「名著シリーズ」版、親本は1957年刊。

 「懐疑と信仰」は昭和三十一年(1956)執筆の月一連載エッセイだ。堀田善衞がアジア作家会議に出席のためインドへ出かけた年である。それまでのエッセイ拾遺とともに、翌年『懐疑と信仰』として刊行された。すでに老大家となっていた白鳥の健在ぶりを示す、痛快エッセイ群である。
 第一回は「死刑廃止論に対する疑問」。世界の趨勢、人道人権意識、生命とは理性とは……。自分も近代人の一人として、死刑制度に反対である。反対ではあるが、本当だろうか? 
 人間だれしもいつかは死ぬものの、その日がいつかを知らされぬから生きていられる。だのに死刑囚は日限を切られる。その恐怖を想像すれば残酷だ。有能な教誨師の導きにより懺悔の想いが湧き、天国だか浄土だかの来世イメージを植えつけられる。個人差はあろうけれども、いくらか心穏やかに処刑されてゆく。
 だが近しい人を殺された遺族の想いは? 下手人を八裂きにしても収まることはなかろう。死刑などでは足りない。生かして返せが本音だろう。

 近代的理性は、そこを堪えろと云う。法は万全ではない。解消しきれぬ矛盾に対しては、どこかで法的線引きをせねばならぬ。さもないと社会が成り立たない。と、まあこゝまではよくある人道主義への疑問なのだが……。
 日本人は曾我の五郎十郎の仇討ちが大好きである。色気ある噺だったはずの助六にさえ、曽我物語を搦めてあり、観客はそれを納得する。また日本人は忠臣蔵が大好きである。報復に残りの人生を賭けた臥薪嘗胆の諸相に、観客は喝采を送る。ならば日本人は非理性的なのだろうか。かく云う白鳥自身も、曽我物語忠臣蔵が大好きである。
 それは前近代の朱子学的道徳であって、近代人は違うと云うか。「親のタマ取られて、黙って引きさがる男があろうかい!」と『仁義なき戦い』でも云っているではないか。(スイマセン、この段落、白鳥は云ってません。)

 白鳥の真骨頂は、自分自身の近代的理性や常識を、自分で引っぱがしてゆく点にある。ひとまずかように思っちゃいるが、そう思う自分は嘘臭いと、どこまでも自己懐疑を重ねてゆく思考力の魅力だ。
 『懐疑と信仰』一巻は、古今東西の文学を縦横に取沙汰しながらも、呆気にとられるほど見事に、無解決が貫かれている。いや無解決というよりも、いったん暫定解決したものを、片っぱしから自分で破壊して廻っている。芸術的完成度など二の次、道を求めて人間の素顔を覗くことだけが重要と、生涯かけて往ったり来たりし続けた正宗白鳥がそこにいる。