一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

始末に負えぬ

国木田独歩(1871 - 1908)

 政治家や軍人に引きずられて、善良な国民たちはだれ一人望まぬ戦争に駆り出された、なんぞという云いぐさは、嘘に決ってる。

 国木田独歩『号外』は、銀座裏通りの安酒場で、定連らしい三人の酔漢が馬鹿笑いしたり口論まがいに云いつのったりするだけの、ごく小さな短篇だが、辛辣で人間彫りも寸鉄的確で印象深い。
 粗末な洋服姿の「男爵」とあだ名される男が、もう一人のどうやら彫刻家らしい男に、俺の胸像を造ってくれと云い出す。造ってもよいが、題名が決らぬと方針が立たぬと応える。ひと応酬あったあげくに、「号外」と決った。男爵は日露戦争中に発行されたなん枚もの号外をつねに携帯している。今ならさしづめ、ポーチからクリアファイルを取出して、高らかに朗読し始める。
 ―― 第〇報、〇月〇日、○○にて敵○○を~。嬉しかったねぇこん時は。胸がドキドキしたもんだ。

 これを正宗白鳥が視逃すはずがない。『懐疑と信仰』所収の「済度し難い衆生」に云う。「戦争が目出たく集結したあと、却って世の中が淋しくなった」男の噺だと。「戦争中お互いの心が融和して親しみがあったのに、戦後は元の如くてんでんばらばらになった(略)一億一心の昔が恋しく懐かしいのだ」と。
 こゝからが白鳥らしい。「この日天気晴朗なれども浪高し」は軍神東郷平八郎大将の戦況報告だが、古今の名文として広く知られ、文士たちからしばしば引用され、子どもでも知っていた。が、それは勝ち戦だったからに過ぎなかろう。もし今次大戦が勝ち戦ででもあったら、「八紘一宇」が「天気晴朗」以上の名言となっていたにちがいない。まずは白鳥節の一発目である。

東郷平八郎(1848 - 1934)

 今次大戦に敗れたおかげで、文壇は隆盛になった。日本人はよほど読書好きとみえて、出版業はますます盛んとなり「読んでも読まなくてもいいような、詰らない本がよく売れる」けっこうな時代だ。「文士貧乏の昔とちがって生活が豊かになって、言いたい事が遠慮なく云えて、しかも、文化人として世間から尊重される、幸福至極の生涯」だ。こんな例は徳川期にも足利期にも天平期にもなかろう。おそらくは世界にもないのでは。白鳥節の二発目である。お気楽な戦後現代とでも云いたげだ。
 それでいて「私など、長い生涯の間、戦争中の何年か、戦後の十年世に生きていたために、過去数十年の間よりも一層多く一層深い人生学を授けられていたようなものだ」などとも云う。なぁんだ、やっぱりたいへんなご苦労だったんじゃないか。藤村も秋声も、先に死んじまってむしろ幸いだったと云わむばかりだ。

 かと思えば、こんなふうにも云う。「明治の文士は気骨があり、権威に屈しなかったように、或文学研究者から聞かされたが、これは買被りであって、あの頃の大抵の文学者は高位高官の人には一歩も百歩も退いて接していた」と証言している。
 だからこそ「鷗外さんは中将相当官だと聞かされると「へえ」と嘆声を発して、一層敬意を新たにしたものだ」とも回想している。
 文士の政治論などご愛敬で、お笑いぐさだったのが、戦後は政治や外交を論ずるのは普通となり、あろうことか当人も自分が権威と思っているらしい気配だ。なにを云っても罰をこうむらぬご時世は、じつに好いもんだ。
 平然とかような証言をする文豪を、私はほかに知らない。すなわち白鳥節の三発目である。

 白鳥流の往ったり来たりは、まだ続く。フェアプレイなんてのはマヤカシで、人間は生れながらに闘争心をもっていて、相手に勝つことに快感を覚える動物だ。最大の勝負事が戦争で、尊敬される史上の英雄豪傑だって、つまりは戦争をやりたかったのだ。凡人推して知るべし。独歩が描いたとおり、戦争が終ればなにかしら淋しいのだ。
 ずいぶん悲観論めいてはいるが、そのうえ戦時下庶民の苦労がごっそり抜け落ちているようにも聞えかねぬが、「只今の僅かの間の平和は有難いことなので、その平和の雰囲気を楽しめるだけ楽む外ないのである」と結ばれる。つまりは幾多の辛酸を舐めたうえでの、緩やかな現状肯定だ。すべてを容認しているようで、なにひとつ信じちゃいない。

 「釈迦もキリストも絶対平和を唱道して衆民を感化した訳だが、彼等の信者は、宗旨上の争闘を起して、残忍な宗教戦争をやりだしたのである」とのオチがつく。
 まったく、始末に負えぬ爺さんだ。かくありたきものである。