一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

豆ご飯


 豆ご飯を炊いてみるか。ふいに思い立った。

 生れて初めて豆ご飯を口にした日なんぞ、憶えちゃいない。たいそう美味くて大喜びした記憶が、うっすらとある。横浜桜木町は野毛坂のてっぺん近く、とあるご大家の勝手口脇の小屋をご縁あって拝借し、ありていに申せば一家三人で居候していた時代のことだ。やがて今の地へ引越してきて、私が幼稚園へと通園するようになるが、それよりも前のことだ。
 四畳半ひと間に、三尺四方の玄関三和土が付いていた。出はなに庇が張りだしていて、小さなへっついが一基。脇にコンクリの流し台と水道の蛇口がひとつあった。母はそこで薪をくべながらすべての煮炊きをした。
 洗濯桶と洗濯板を流し台の上に傾けて載せ、洗濯をした。お屋敷の裏庭に丸太が二本立っていて、干場になっていた。竹竿の先に三差路形の木の枝を取りつけたサスマタを使って、丸太のあいだに長い竹竿を差し渡して干し物をした。
 へっついと水場の並びから、右手へ庇つづきに五六歩行ったところに木戸があって、汲取り便所だった。雨風の日には、用を足すにも難儀した。

 母はたまに、醤油ご飯を炊いてくれた。茶飯のごとき、色着き味着きご飯である。私はたいそう喜んだ。
 母方の郷里から、時おり米を送ってもらえた。当時の米は色も悪く、精米も粗く、しょっちゅう虫が湧いた。新聞紙の上に米を均して、母は時間かけて丹念に摘んでいた。差支えある米もあったことだろう。釜のフタを開けると、蒸しあがった湯気がプンと匂うような米でも、父と私になんとか食べさせようと、醤油ご飯は母の窮余の工夫だったにちがいない。なにせ醤油一滴だって、無駄にはできぬ家計だったのだ。
 まだカレーライスも知らなかった。支那ソバや豚カツなんぞ視たことすらなかった。

 ある時、醤油ご飯の上に、いく粒かの豆が載っていた。ご飯のなかにも豆が混ざっているようだ。これを食べると大きい子になれるのだと、母は云った。夢中で食べて、お代りした。
 郷里から送られた荷物のなかに、豆が添えられてあったのだろうか。乾燥も十分でない、粗悪な豆だったにちがいないのだが。
 それでも豆ご飯はその後の私にとって、特別な食べものとなっていった。今でも、祝い事か大仕事の区切れ目か、なにかしら特別な日の豪勢な主食との想いがしている。

 料理上手がたのレシピを検索してみると、水加減と塩加減だけに気を遣って、あっさり上品に炊きあげておられるかたが多い。なるほどそれが本道だ。乾物の豆を水で戻して、塩茹でしてから使えば、豆味が立つと同時に塩気も出る。水煮製品を利用しても、うっすら塩味が着いている。それらを活かして、あっさり仕上げるのがコツというものだろう。
 だが私は違う。豆味に含まれる塩気は大事にするとして、塩半量にして、少量の醤油を使う。色を着け、かすかな醤油味も着けるわけだ。
 酒もむろん使う。料理上手がたは、炊きあがったらすぐに酒を回しかけ、蒸らすなかで香りを付けるなどとおっしゃる。なるほどねぇ。さようでもございましょうが、私は水加減のあと、豆や塩や醤油が偏らぬように軽くかき混ぜるが、最後に酒も差してしまう。そして蒸らしのまえにも、もう一度少量差す。
 おそらく邪道だろう。料理上手がたからは叱られるか、嗤われるかもしれない。が、わが着色豆ご飯は、豆入り醤油ご飯のかたちで母より伝授の、わが家のレシピである。

 昨日で入庫も打上げも、今年の芸祭における古本屋研究会の活動はすべて、無事に終了した。結果はまずまずだった。
 どなたに報告するでもないし、いかなる神に感謝の念を捧げたてまつるでもないが、私一個のせめてもの祝賀である。