一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

北京

中薗英助『北京飯店旧館にて』(筑摩書房、1992)

 この短篇集が出現したときの衝撃は、忘れられない。

 それまで中薗英助とは、面白いミステリー小説を読ませてくれる小説家とのみ思っていた。とくにスパイものという分野の先駆者的小説家だと。
 『スパイの世界』(岩波新書、1992)という、国際情勢の裏面にまつわるドキュメンタリーなんだか、ミステリー小説の裏噺といった解説的読物なんだか、つまり教養なんだか娯楽なんだか、得体の知れぬ面白い本も出ていた。そこへ突如として『北京飯店旧館にて』が刊行されたのである。
 大感動というのではなく、大ビックリというのでもない。そのように手軽に云ってしまっては失礼に当るような気がした。面白かったとのみ申しては不謹慎のような気がした。

 主人公二ヤイコール作者は、戦前旧満洲を経て北京に住み、語学学校生徒から北京大学聴講生やがて邦字新聞の記者として就職。敗戦後の昭和二十一年(1946)に引揚げるまでの九年間を北京に暮した。その間に小説習作を試み、仲間と同人雑誌を刊行した。仲間には日本人も中国人もいた。取材記者として、日本人、中国人、朝鮮人作家たちとも数かず面談、交流した。
 敗戦時の混乱で散りぢりとならざるをえなかった。日本軍がいなくなれば重慶軍(国民党)が入京してくるだろう。そうなれば日本人の身ばかりか、日本に協力的だった中国人と看做されれば、日本人以上に危ない。地方へ逃げる者もあれば、延安軍・八路軍共産党)の支配地域へと逃れてゆく者もある。いずれの途も断たれ、ヤケクソの居直りで北京に留まる者もあった。

 引揚げてからの中薗英助は、新聞社勤務ののちフリージャーナリストとなり、小説も書いた。アジア・アフリカ作家会議の活動で海外へ出る機会はいくらでもあったろうが、北京へだけはけっして行こうとしなかった。心の裡に整理のつかぬものが山ほどあったにちがいない。
 帰国してから四十一年後、旅費・宿泊費ほか、すべて自前でと厳密な自制条件をつけて、北京を訪れた。それだけの年月を要したのだったろう。

 新妻が瀕死状態に陥った報せに、仲間の一人が血相変えて石段を登っていったあの病院は、今どうなっているんだろうか。その仲間は日本人で引揚げ後も再婚せず、独身を通して地方に身を隠したまま杳として行方知れない。今の北京風景を報せてやりたいもんだが。
 北京銀座の店みせは今もあるんだろうか。盛り場の奥まった穴場に名曲喫茶があって、仲間との溜り場であり隠れ家だったが、ひょっとして今も建っていたりするんだろうか。
 日本文学報国会の肝入りで、大東亜文学者大会なんぞという催しが三年ほどあって、二回ほど大東亜文学大賞を募集した。勇躍応募して見事佳作入選した中国人の仲間たちはいずれも、戦後は漢奸の汚名をこうむって悲惨な日々を送ったらしいが、その後の消息は日本に聞えてこない。まさか北京に暮してはいるまいが、ひょっとして。
 国際級ホテル北京飯店も、今では新館や新々館が有名らしいが、要人へのインタビューに使ったりした自分にとっての北京飯店とはこれ以外にない。
 センチメンタル・ジャーニーと称ぶには、あまりにも痛い回想観光である。

中薗英助(1920 - 2002)、神奈川近代文学館ポスターより。

 重しが取れたというか、栓が抜かれたというべきか、堰を切ったように中薗英助は北京時代と、その時代に交わった人びとについて書き始めた。数年後には再度の北京滞在もした。
 短篇集としては続篇と申してよろしい『北京の貝殻』(筑摩書房、1995)がある。列伝的な人物回想録としては『わが北京留恋の記』(岩波書店、1994)、『過ぎ去らぬ時代 忘れえぬ友』(岩波書店、2002)がある。どれも佳い。
 それ以外の自伝的要素を含む作品においても在北京時代や人びとが描かれた。

 中薗英助の愛読者と名乗るもおこがましい。ましてや研究しようと申すのではない。
 たゞ確かなことは、日本の敗戦時に、武田泰淳、堀田善衞、石上玄一郎の三人が上海にいたことが、その後の日本文学にとって、まことに大きかった。それに勝るとも劣らず、この作家が北京にいたことも大きい。