一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

身の丈

正宗白鳥(1879 - 1962)

 文士ふぜいも、偉くなったもんだ。感慨に耐えぬようでもあり、皮肉に吐き捨てるようでもある、いつもの正宗白鳥節が炸裂している。『回想録』の「明治文壇と今日の文壇」という章でだ。

 白鳥曰く、明治期には、文士が西園寺公望首相に招かれたといって、異様な文壇的事件となった。むろん国際関係や政治課題についてのご下問があったとは考えられない。芸術や下世話風流に関する、肩の凝らない懇談の機会ででもあったに過ぎなかろう。
 それが今では、世界情勢だろうが文明の未来だろうが、求められれば文士が得々として語る時代となった。一例として、インド滞在中の石川達三が新聞に寄せた感想記事が指摘されているが、むろん石川その人への批判などではない。例として掲げられた石川達三こそ不運というものだ。

 いつから文士が議論好きになったのか。ほかの文章で白鳥は、坪内逍遥から直接聴いた云いぐさを回想している。逍遥曰く「人生問題なんぞ考えるようになったのは、北村透谷や国木田独歩が現れてからのことだ。自分らの若いころは極楽トンボでふわふわしたもんだった。二葉亭だってそうだったよ」
 それがいつ頃から、文士ふぜいが議論好きになってきたのか。白鳥の観察によれば、吉野作造農本主義(つまり大正デモクラシーだ)あたりからで、プロレタリア文学(つまり大正末から昭和ひと桁だ)時代となると、真盛りとなった。
 それより前の議論だ主義だなんてもんは、たとえば幸徳秋水など無政府だの虚無だのと大声で主張したところで、獄中にあって処刑されるまでのあいだは、母のことばかり考えたなんぞと云っている。天皇もキリストも信仰しない代りに、なんのことはない、母親が信仰対象だったに過ぎなかろう。

 白鳥の趣旨は、身の丈に合わぬ「主義」なんてもんは、すぐ化けの皮が剝れるということのようだ。
 文士・言論人だけが怪しげだったわけじゃなく、取締る国家権力だって幼稚だった。ある時期、正宗白鳥にも警察の尾行が貼りついていたという。文芸雑誌で白鳥が虚無主義的作家と評されているのを目ざとく視逃さなかった警察が、そりゃ大変だ、この作家をマークせよとなったらしい。コント化しようもない笑い噺だ。

 その他、イプセン歿後五十年祭とのことでノルウェーから白鳥にお門違いの招待状が舞込んだ噺だの、戦時中に島崎藤村が他界してしまったために、戦後日本ペンクラブ会長の席に不似合いにも白鳥が座らされてしまった噺だの、そもそも日本ペンクラブの最初はという内紛がらみの噺だの、笑止きわまる逸話が続く。
 一介の、いわば平土間の文筆人として、自由に考え闊達に書いてきた白鳥の周りを、勝手に訪れしばし渦巻いて、勝手に消えていった騒ぎのあれこれを、滑稽で面白いものとして、冷笑的に云い捨ててゆく。
 その日本ペンクラブが、来年(執筆の)は国際ペンクラブ世界大会の開催国だという。世界の片隅で、日本人らしい文学を、日本語らしい表現で、微々たる存在として続けておればよろしいものを、なんだかえらいことになったと慨嘆してその章を了える。

 その文章が書かれたのは、昭和三十一(1956)年だ。前年に一橋大学の学生石原慎太郎が『太陽の季節』を引っさげて颯爽と登場。たちまち社会現象となって、世はまさに「太陽族ブーム」に沸いていた。よろず旧弊を打破せよ。道徳なんか踏み破れ。価値観も美意識も刷新せよ。自由だ、情熱だ、行動だ、肉体だ。いやはや、たいへんな騒がれようだった。
 ひと言も書いてないが、白鳥が云っているのはこういうことだ。「主義」の幻想に踊らされる姿はみすぼらしい。身の丈に合わぬあらゆる「主義」は、どうせすぐにお里が知れる破目になると相場は決ってる。
 世に蔓延する「自称最新」世相コスプレを、旧臭いなぁと感じながら、白鳥は詰まらなそうに眺めていたのだったろう。