一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

散歩の達人

冨田 均『東京徘徊』(少年社、1979)

 この人の仕事は残る。私は疑っていない。

 若き日からひとつのことにばかり関心を抱いていると、後年目覚しいお仕事をなさった人に、あんがい早い時期にどこかで、なにかの機会にお逢いしていたということが、よくある。あゝやはりあの人がと、得心がゆく。当時から手応えが尋常ではなかったと。
 立松和平さんにも、中上健次さんにも、荒川洋治さんにも、あゝ力のあるヤツだなぁとの手応えがあった。が、才能が独自だと心そこ痛感したのは、冨田均さんだ。もう何十年もお眼にかゝってないが、今でもさよう感じている。

 冨田さんがおそらくは二十二歳、私は十九歳だった。高校卒業後ただちに、私は仲間と同人誌を創刊したが、同じ年に冨田さんも『守護神』を創刊された。文芸誌だったか書評新聞だったかの同人雑誌評に、若者筆者たちの創刊号ということで、並んで紹介された。
 今から想うと、自分でも気恥しいほど血気盛んでフットワークも悪くなかった私は、さっそく『守護神』発行所へ挨拶状を送り、雑誌の交換と面談を申し出た。で、冨田さんと初対面したのだが、さてどこで待合せてどんなふうにお逢いしたのか、記憶にない。
 その後、頻繁ではなくとも、おりに触れてお逢いした数かずの場面が記憶に蘇るのだけれども、初対面の記憶だけはスッポリ抜けている。あるいは住所を述べあって、郵便で雑誌を交換したのだったか。それにしても、やがては初対面を経験したはずなんだが、どうもはっきりしない。

 冨田さんは高校卒業後、大学進学はせず、すでに自主映画をなん本か撮っておられた。当時三一書房から「高校生新書」という新書判のシリーズが刊行されていて、その一冊に後年の演劇プロデューサー七字英輔さんほか共著の『ぼくらの大学拒否宣言』があった。冨田さんはそれに共鳴されたか、あるいは著者たちのなかにお仲間がおいでだったかと、聴いた憶えがあるが、詳しいことは忘れた。
 アンダーグラウンド・シネマとかアングラ映画という言葉があった時代である。冨田さんの映画作品は海外の国際映画祭で受賞したりして、一部で評価高かったらしいが、彼のそうした映画時代を私はまったく知らない。今日に至るまで、作品を拝見したこともない。映画から足を洗われたものか、文学へ移ってこられて、おりしも創刊号を出されたとき、私はちょうど出逢ったのだった。

 『守護神』では毎号小説を書かれていた。のちに『早稲田文学』にも一本発表された。学生編集号という特集号だった。
 第七次『早稲田文学』のとある号に、筆者・作品選定をすべて学生に任せてみようじゃないかとの冒険企画があったのだ。当時編集部の下働きアルバイトだった立松和平さんが中心となって、意欲的な原稿が集った。冨田作品のほかには、当時仏文科の大学院生で後年白水社の名編集者にしてエッセイストとなられた鶴ケ谷真一さんの小説があった。ほとんど無名だった福島泰樹さんの短歌もあった。『遠くまで行くんだ』編集委員の一人である新木正人さんの評論もあった。
 その『早稲田文学』も『守護神』バックナンバーも、すべて我がゴミ書架深山幽谷の奥にあるが、今は掘出さないでおく。ひと言だけ申せば、冨田さんは齢のわりに老成した文学観を持たれた、巧い書き手だった。

 が、その後の彼は、小説家への途を選ばなかった。散歩の達人となられた。昭和の御代にあって、江戸の街並みと地形とを確かめて歩くかのごとき、低い視線からの味到観察である。現代東京の雑駁な風景のはずなのに、冨田さんの眼で視とおされることで、東京の庶民生活誌や災厄史や、生態史から近代化の歪みまで、驚愕すべき実相が立ち現れてきた。
 数ある冨田散歩記のどれ一冊でも好い。読み進む読者の眼からは、一瞬高層ビルも高速道路も消えて、山や坂や谷や窪地や、路地や掘割や樹々など、幕末江戸から明治東京へかけての地形が見えてくることだろう。いく度かの戦争と一度の大地震を経て、東京という街がいかに痛みを伴う近代化の道を歩んで来たかが、遥かに偲ばれることだろう。


 どうでも一冊を示せとせがまれれば、やはり処女作『東京徘徊』をお奨めするほかあるまい。これが現れたときの、どう言葉にしたらよいか戸惑うような、狐に抓まれたような感動を、私は嬉しく懐かしく思い出せる。構成や語り口の巧みさにおいてなら、処女作を超える作品は、むろんあるに違いない。が、この一書の刊行は、後年振返ってみると革命的だった。
 「ずいぶん評判のようで、おめでとう」
 「うん、それがね、意外にも建築の人なんかが評価してくれてね、驚いてるんだ」
 聴いた私にも意外だった。なん年か後に判明した。陣内秀信『東京の空間人類学』(筑摩書房、1985)が現れた。ヴェネチアの都市建設工学や都市形成史を研究して帰国された陣内さんが、その技法と見識とを活用して、東京の都市論を提唱された。その翌年には、『中央公論』元編集長だった粕谷一希さんが雑誌『東京人』を創刊されるという順になる。その創刊号には、むろん冨田さんも記事を書いておられた。

 今日からは想像もつくまい。人でも物でも事柄でもなく、「東京」なんぞというものが正面切って主題となる論説など、それまでは考えられなかったのである。冨田さんにも驚かされたが、陣内さんにも粕谷さんにも驚いたものだ。現在では、都市空間としての東京、なんてことは、ちょいと気の利いた学生なら造作なく口にする。その着想が、だれによって、いかに切り拓かれたかなど、考えてもみなかろう。
 冨田さんは、幼きころ遊びまわった東京が好きだ、今より昔の東京のほうが好きだと、きわめて個人的に、ということは文学的に、東京をためつすがめつして、ひたすらに歩き回り、書き記した。その成果からインスピレーションを受けた具眼の読者たちがあって、とある文明論の視座が拓かれたのである。

 手もとには現在二冊の『東京徘徊』がある。刊行時に、冨田さんが一冊ご恵送くださった。光栄だった。が、次にお逢いしたさいに、
 「せっかくいたゞけるなら、サインしてくださればよかったのに」
 なんたる暴言を吐いたものか。若気の至りで済む噺ではない。
 数日経ってからもう一冊、今度は見返しに署名入りの本が送られてきた。
 自分の軽薄な性格とつい甘えが出やすい気質の記録として、以来今日まで、わが書架にかならず二冊並べて立てるようにしてきた。
 四十三年前のことだ。あん時は冨田さん、ほんとにごめんなさい。