一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

後始末



 往来の落葉掃きをしていると、塵取りのなかにいろいろなものが掃き寄せられてくる。

 「地球環境」なる語の用いられかたに、一抹の疑問を感じている。
 海底に樹脂類が堆積して、それが魚介類や海中植物に悪影響を与え、ひいては人間の食糧に影響して健康被害につながる危険があるという。たしかに由々しき事態だ。鯨やイルカやシャチや、渡り鳥やペンギンなどの死骸が浜に打上げられ、解剖してみると胃のなかはレジ袋で一杯だったという調査もあるという。たしかに嘆かわしい事実だ。放棄され捨てられた漁具が海面に漂って、それに足を絡まれた水鳥が飛立てずに、命を落す例もあるという。運とも災難とも自然淘汰の誤差のうちともいえようが、胸痛む事故ではある。
 いずれも人間が行届かぬ生命体であるがゆえの、他種生物にかける迷惑だ。反省の余地も自重・改善の必要もあろう。たゞしあくまでも「人間の環境」問題であり、食糧の安全問題であり、文明・倫理の問題だ。それを「地球環境」問題だと、憚らずに云ってしまってよろしいもんだろうか。

 とある高名な科学者がおっしゃった。
 「プラスチックなんてもんは、元が石油でしょ。生物の死骸の成分ですから。人間が手を加えていくらか崩壊しづらい組成にしちまってはありますが、やがては分解されますよ。永久に残るなんてことはありません」
 たしかに部屋の隅っこに長年積重ねられたまゝだった古雑誌を処分しようとすると、分類に活用したその時分のレジ袋が、粉ごなになって指の間から散ってゆくということを、私も日常的に経験している。
 ということは、樹脂ゴミについては心配ないのだろうか。そんなわけない。魚介食糧や海洋生物や海鳥の問題は、一年三年五年十年の問題だ。先程の科学者先生によれば、海底の樹脂ゴミなんぞは、三十万年もすればきれいさっぱり分解されてしまう、ということだった。つまりこれが、地球環境というもんだ。

 人間が地球環境を云々するなんて、おこがましいのではないだろうか。地球は人間なんぞの力では、びくともしないのではないだろうか。
 現在、地球環境問題と僭越にも称しているのは、じつは人間の食糧問題なり倫理問題でこそあれ、地球の名を借りて語るべき事柄ではあるまい。地球と冠をつけてしまうから、巨き過ぎる客観的問題が遠くにあると見えてしまう。じつは身近な人間問題に過ぎぬことがらまで。

 落葉掃きの塵取りに掃き寄せられてくるゴミのうちでも、一見目立たぬようでいてかなり腹が立つのが、煙草の新箱を開封するさいに、細い帯をグルッと廻し剥して切離した、包装フィルムの上部分である。歩きながら新箱を開けて、ポイ捨てして憚らないのだろう。煙草喫みの風上にも置けぬ奴らである。
 これを枯木、枯枝、枯葉類と分別せずに地中に埋めてしまおうものなら、あんがいしぶとい。四年前に掘ったきりの場所だからよかろうとスコップを突っこんでみると、植物の死骸たちは見事に土に還ってくれているのに、こいつだけが出てくる。
 三十万年はもたないのだろうが、三年ではへこたれない。つまり地球問題ではなく、人間の倫理問題だ。私自身がある齢以降途切れることなき煙草喫みであるだけに、こういう輩がいるから俺まで虐められるんだと、余計に腹立たしくなる。

 で、今日も今日とて、落葉類のなかから小さな透明フィルムの切れっぱしを、選り分けては紙屑かごへと運んだ。ペットボトルだの空缶だの、割箸だの発泡スチロール製カップだのといった、眼に着きやすいものはむしろ罪が軽い。
 そして今日の落葉穴には、枯葉に混ぜて蕪の皮と柿の皮が入る。大北君ご丹精の蕪を、薄切りにして浅漬けとして漬け込んだ。先週末ご来訪のカメラマン嬢からお土産の柿を美味しくいたゞき、皮を捨てずにおいた。
 これらが地中で適度に発酵して、枝葉類の分解を促進してくれる。