一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

人さばき

永井龍男(1904 - 90)
井伏鱒二対談集』(新潮文庫、1996)より無断切取り。撮影:田沼武能

 どれほどのユーモア精神があれば、かような対談ができるようになるのだろうか。溜息が出る。日暮れて途遠し。

 永井龍男井伏鱒二による回想録的対談となれば、噺はどうしたって文藝春秋菊池寛とに及ばざるをえない。関東大震災の直後、「横光利一はどこにいる」と書いた旗を立てて、焼跡を探し歩いた菊池寛の姿を、井伏鱒二が伝えている。横光の人柄をことのほか尊重し、可愛がった菊池の面目躍如の逸話だ。
 「文壇交遊録」(大正十四年)という短文は、多くの知友を一筆書きに列挙した、菊池寛ならではの痛快きわまる人物評集だが、なかで横光を「交友四五年。硬骨、信頼すべし」としている。横光についての、これが全文である。
 身内びいきの甘あま人物評集ではない。高等学校以来の親友久米正雄については「交友十二三年。例へば星の昼は見えざるが如き良友なり。但し、事は頼まれず」とある。見識と娑婆での実務能力とは別と、菊池は分別していたのだろう。

 井伏・永井ご両所も、横光利一の誠実さ、後輩に対する親切さなど人柄の立派さについては、異口同音に口を極めて称揚し、感謝の念を捧げている。
 横光利一の不幸は人気が出過ぎた点にあった。「文学の神様」なんぞと祀り上げられ、模倣者が頻出した。ために教祖的だの文壇政治的だのと、あらぬ中傷や陰口が飛びかう破目となり誤解されたと、井伏は証言し、永井も同意している。

 「横光さんって人はね、それはそれは清らかなかただったよ」
 かつて私は、林富士馬先生からじかにうかがった。当代の人気作家ゆえ、文学青年らの訪問が引きも切らない。面倒がらずに対応してくれたあげくに、辞するさいには、玄関の上がりかまちに横光本人と夫人とが正座して見送ってくれたという。
 できることではない。

 ところで、人を視分け適材適所の人材配置や交際をした点で、菊池寛の取りさばきが一流だった件については、じつに多くの証言が残っているが、思うにこれは優れた経営者に共通する属性なのだろう。
 早川書房を創業した早川清社長も、伝説化した逸話の多いかただった。創業までの苦労譚については今は措くとして、海外ミステリーの翻訳と SF 小説とが軌道に乗り始めた時代の噺。
 出版部長が詩人の田村隆一、ミステリー雑誌の編集長が都筑道夫、続いて生島次郎、常盤新平とバトンタッチされていった。SF 雑誌の編集長は福島正実だ。後年から振返れば有名作家・翻訳家・論客だらけの、猛者の集団である。空調設備もない時代、夏は短パンにランニングシャツ姿の侍たちが、激論を交しながら、怒ったように狂ったように仕事していたという。当然ながら、社長と編集部との衝突にも火花が散り、時に罵声が飛びかうに似た応酬もあったそうだ。

 早川書房の刊行物には『悲劇喜劇』という演劇雑誌がある。演劇は創業時から社長の志であり、海外娯楽小説の翻訳が軌道に乗って以後は、あれは社長の道楽と揶揄されたりもしたが、廃刊されることはなかった。
 同誌編集部に○○さんという、温厚で仕事丁寧な社員があった。ミステリー・SF 部の猛者連中に較べれば、凡庸な社員だったかもしれない。夕方、仕事終りの時刻が近づくと、早川社長が編集部へ顔を出し、「おーい、○○君」とお声がかゝる。飲みに出掛けるお供のご指名である。○○さんは社長のお気に入りで、ミステリー・SF 部の猛者連中はだれ一人として、ご指名を受けなかった。
 それでも、である。人柄と仕事評価は別だった。ボーナス査定期ともなれば、目覚しい成果を挙げた猛者編集員を高く評価し、○○さんよりはるかに高額のボーナスを奮発したそうだ。

 その模様をアクリル板のこちら側からつぶさに眺めていた、当時の同社営業部長だったかたから、じかにうかがった。
 「たしかにそうではあったんだけど、奮発って云ってもねぇ……もとが安いから。私ら社員みずから、ケチ川書房って称んでたからねぇ」
 だいぶ後年になってから、常盤新平さんから、これもじかにうかがった。
 ○○さんの名誉のために申し添えるが、凡庸なかたなんぞではなく、後年創業社長亡きあとも、重役のお一人として重責を担われた。