一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

予兆

伊藤 整(1905 - 69)
『太平洋戦争日記(一)』口絵より無断切取り。撮影:平松太郎。

 重苦しい空気が充満する時代。伊藤整一家は杉並区和田本町に住んでいた。

 十二月一日午前。まず講師を務める日大芸術科へ出講。レポート課題を発表した直後につき、出席学生はわずか六名。外から聴講に来ている女子が一人。生花の師範とか。講義内容は葛西善藏『子をつれて』だった。
 上野図書館へ行き、連載中の小説のために調べごと。勧進帳について確認したかった。河出書房へ赴き用足し一件と、印税残額百三十円を受取る。銀座まで歩き、雑貨買物いくつか。地下足袋、靴底の鋲、指を怪我した女中のためにゴムの指サックほか。いずれも商店では品切れで、露天商から買った。

 近く大規模な女子の徴用があるとの噂。女中と女給がまずもって狙われ、二十五歳以下の未婚女子が対象になるという。血相変えて娘の縁談を急ぐ親たちも。
 報道班員として文士の徴用も進んでいる。大阪へ徴用された高見順は、廊下に寝かされてブンむくれているだの、陸軍大学に起居する阿部知二はえらく待遇が好いらしいだの、丹羽文夫が徴用されて戻されたという噂はガセで、丹羽は徴用されなかったのだだの、風の便りはいろいろ耳に届く。明日は我が身。手を打っておかねばならぬことは次から次へと出てくる。妻貞子、長男滋(十歳)、次男礼(八歳)、女中千恵子。

伊藤整『太平洋戦争日記 』全三巻(新潮社、1983)

 十二月八日、煙草を買いに午後一時外出。ご近所のラジオが真珠湾急襲とタイ進駐を報じていた。わが家のラジオは故障中で修理に出してある。原っぱではおかみさん連中が防空壕を掘っている。煙草は買えたが、八百屋も魚屋も行列だ。
 バスで新宿へ。いつもよりいくらか静かだが、乗客たちの表情にはなんの変化も観られない。月曜につき百貨店は休日。静かな新宿市街で菓子屋だけが行列。
 バスで銀座へ。まず日劇の地下のトイレへ。すれ違う人びと静か。新聞社には号外が貼り出され、夕刊は飛ぶように売れている。自分も四部買った。
 英米と戦争にでもなったら、のっぴきならぬことになるがと、かねがね懸念してきた。ついに、ついに……。緊張し、興奮しているのは、自分だけなのだろうか。
 帰路のバスを鍋屋横丁で途中下車。さつま揚げなど当座の買物をして、帰宅。

 ラジオが直ってきた。滋は「すごいね」「勇ましいなぁ」と興奮している。礼は「どうして戦争は起きるの?」と暢気なものだ。
 真珠湾での赫々たる戦果報道。かすかに安堵。しかし当方犠牲も少なくあるまい。無駄死にではなかったと、言葉を捧げたい。
 こうなるとソ連の出かたが気にかゝる。自分も宣伝中隊に徴用されることだろう。子どもたちは寝た。せめて今は、一夜いちや安らかに眠れ。いつまで寝顔を観ていてやれるものだろうか。
 後日の感想として、伊藤整はこの日の日記に追加記入している。自分たちは、白人の一流人と戦うほか、世界一流人の自覚に立てない宿命を負っている。日本と日本人の一つひとつの意味が、初めて現実感をともなって、自分にも見えてきた、と。

 歴史資料として読み、遠くへ押しやることも可能だろう。そんな時代だったと、笑って読み置くことも可能だろう。だが……。
 官僚が「もはや戦後ではない」と謳ってから、六十五年以上経った。優れた論客いく人かが、現代は戦後ではなく次なる戦前なのだと警鐘を鳴らしてからでも、三十年近く経つ。ようやく我ら市井の凡人にも、とある現実感が感じられてきたのではあるまいか。