一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

もう半分


 えゝ、取るにも足らぬことですとも。私には重要ですけど。

 大北からしばしば、ご丹精の野菜をいたゞいて重宝していることは、これまでいく度も書いた。いずれ劣らぬ大ぶりの蕪と生姜と里芋とをいたゞいて、大喜びした次第を書いて二週間以上にもなる。蕪と生姜とはさっさと酢漬けにして、保存食とした。里芋は日保ちがしそうだし、慌てず騒がず少しづつ味噌汁の実にしたり、適当な相方を思いついたら炊き合せようなんぞと、のんびり構えているうちに、どんどん日が経ってしまった。そろそろなんとかせねば。
 日ごろは八百屋で買うことのない芋だ。なんにでも使えて、どんな相方と合せても失敗の少ないじゃが芋を、どうしても買ってしまう。独居自炊においては、無駄なく使い切れることが至上命題である。里芋は献立が限定され、調理にも加減が必要そうだ。先入観だが。

 もっともありふれた「煮っころがし」を、私は自分で仕立てたことがない。あったかも知れぬが、記憶はない。ま、そう難しいもんでもあるまいと、皮むきを始めてしまった。とりあえず、いたゞいた里芋の半分ほどを使ってみる。
 料理の先生は、新鮮な里芋の皮むきに包丁は要りません、スポンジでこするだけで、クルンと剥けますよ、なんぞとおっしゃる。たしかに包丁もピーラーも使わずに、毛羽だったような外皮は剥ける。が、クルンと剥けるというほどでもない。スポンジよりは金属たわしのほうが仕事する。こすって塊になった外皮を、指で毟りはがすようにして取り去る。老人の鈍感な指先にとっては、けっこうな手間である。

 外皮を剥いたところで、表面に窪みやら筋やら茎との切離し跡やら、黒ずみ箇所は多い。結局は包丁が必要だ。しかも大ナタ振うように厚剥きしてしまうのはもったいない。少しでも余計に食べたい。包丁の手前の角を使って、黒ずみを丹念に取り除くことになる。時間も手間も尋常ではない。
 それに大北農園の里芋は大ぶりだ。クワイのお友達といった程度の小ぶり里芋であれば、煮っころがしの名のとおり、鍋を揺すりながらコロコロと煮汁を絡ませられようけれども、三つか四つにカットして、面や角が出る恰好にするから、火にかけてからも眼が離せない。

 油にうっすら馴染ませてから、水と酒を投入。煮立ったところで、砂糖を投入。きっと多めが好いのだろうと、ヤマ勘。落し蓋をして煮る。醤油は芋に熱が通ってからだ。宮城県の味噌蔵さんが製造したという溜り醤油を使ってみる。ご近所のスーパー奥さまから過日いたゞいたものを初使用だ。試用か。
 煮崩れせぬ程度に鍋を傾けたり、芋の位置を替えたり、面倒を看る。こゝが小ぶり里芋より手間のかゝるところだ。
 汁が煮詰まってきて、とろみが出てきたら、しゃもじで廻しがけして、絡ませる。これ以上欲張ると焦げるかもしれないというところで、火を止める。

 冷めてから試食。ザマ―ミヤガレ! たぶんこれまで食べた煮っころがしのうちでも、上位ランキング入りだ。自己満足。夜中の三時半。
 小鉢に二個三個つけて、四食か五食分にはなると思っていたが、とんでもない。このぶんだと明日中には無くなってしまうかもしれない。
 思惑変更。もう半分も、煮っころがしにすることに。