一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

身を処す

徳川夢声(1894 - 1971)
『お茶漬け哲學』(文藝春秋新社、1954)口絵より無断切取り。撮影:土門 拳

 庶民は時局に、黙って身を処した。小林秀雄は戦時下の空気を回想して、たったひと言で云った。よくよく味わってみるべき言葉だ。

 12月8日月曜、温暖。徳川夢声は神戸にあって、ホテルのフロントのラジオで、対英米宣戦のニュースと東條英機首相の「国民に告ぐる」放送を聴いた。難しい言葉の連続で、ピンと来なかった。湊川新開地の花月劇場で、軽喜劇「隣組鉄条網」に出演中だった。
 ほォらおいでなすった。予言とは二日ずれたが、と咄嗟に思った。民間信仰コックリさんでは、12月10日に戦争が始まると予言されていた。
 日に二回公演の芝居のほうは、昼夜とも客の入りがさっぱりだった。同宿者には阪急会館に出演中のバンドマンたちがいたが、そちらも全然だったという。この時局にジャズでもあるまいと、苦笑いしきりだった。

 翌る9日火曜、雨。朝刊には眼を疑うほどの戦果が、大々的に報じられた。日本海軍は魔法でも使ったのか。「いくら万歳を叫んでも追つつかない。万歳なんて言葉では物足りない」と、日記には書きつけてある。
 開戦のおかげで、ホテルの朝食を堪能した。いつも朝寝坊の徳川夢声は、それまでホテルの朝食時間に間に合うことがなかったのだが。

夢声戦争日記』全5巻(中央公論社、1960)。装幀:武者小路実篤

 府立一中卒業後、一高の受験に失敗。落語家になろうかと師匠の目星までつけたが、父親の強硬な反対に遭い断念。無声映画活弁士となった。人気を博してラジオの朗読者となり、やがて役者にもなった。随筆や軽小説も書き、戦後にはテレビ草創期の重鎮タレントの一人だった。マルチタレントの草分け的存在である。
 『夢声戦争日記』の「まえがき」に云う。
 ―― 戦争の記録も、現在までに各方面の人々によつて、いろいろと出た。もう沢山だと云えないでもない。そんなところへ、私の日記など無駄も甚だしい、と世間様から云われそうである。
 ―― しかし、大政治家や大軍人の書いたもの、各大学者、文学者の書いたものはあつても、一般俗人の書いた記録はあんまりないようである。一般俗人が実は国民の正体なので、その意味においてはこの日記は、読む人によつては最も注目すべき内容なのかもしれない。

 同じ「まえがき」には、こうもある。
 ―― 終始一貫し、ムキになって戦争と直面している記述でない。ひどく呑気千万なことも書いてある。当時、こんなことを書いたら忽ち非国民と罵られるであろうことも書いてある。
 実際に、さような日記である。当然だ。オマンマ食わねばならない。知友やご近所ばかりか、家族間にだって面倒なことは起る。戦争動向の監視ばかりはしていられない。にもかゝわらず、戦争の激化と歩調を合せて、暮しはいかんともしがたく逼迫の度を増してくる。
 徳川夢声が「一般俗人」に該当するかいなかの詮議は措くとして、この日記には、時局に黙って身を処した人びとの姿が、記録されてある。