一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

冬来たる


  来春三月までの長期予報によると、例年にも増して寒い冬になるという。

 郷里の従兄から、私にとっては珍しい食品をいたゞいた。こゝ数年、年末には同じ品物をいたゞいてきた。初めての年には、世にはこういうものがあるのか、美味いもんだなあと唸った。上越市の横山蒲鉾店謹製による、変りかまぼこの詰合せである。
 商品案内の写真付き印刷物が同封されてあるから、従兄からの恵贈を待つまでもなく、ふだん取寄せ註文すればよろしいもんだが、まだしたことがない。私の暮しには贅沢品と感じるからだ。

 値段のことではない。だれにでも、金に糸目をつけぬ分野と、可能な限り節約倹約すべき分野とがあるべきだ。その人の優先順位の問題、すなわちライフスタイルの問題である。いかなる分野においても見境なく金を惜しまぬ態度を、成金趣味と称ぶのだと思う。
 バスケットボールのゲーム会場で、二千円の二階スタンド席で観戦しても十分愉しめるわけだが、コートサイド前列の S 席六千円や八千円のチケットを探したりする。べつに中継放送の画面に映りたいわけではない。わがまゝ勝手な心の贅沢と云えばそのとおりだ。
 美味いものだなぁと感服したとしても、かまぼこだったら、ふだんはスーパーの大衆品が私には似合ってる。年に一度、従兄からのご好意をありがたくいたゞくのが、私には分相応だ。

 その従兄からの来簡によれば、今夏は例年になく暑い日続きで、畑の草刈りには往生したという。人手を借りて機械の導入回数も増やし、鎌の手技もとことん駆使して、ようやく了えたという。そして冬の寒気予報。山頂はすでに雪をかぶったそうだ。空模様が悪ければ、例年以上の豪雪となろう。
 今年の年明けには、先祖代々可愛がってきた松の巨木が折れたという。そこでこの冬対策として、庭木類の枝ををいっせいに剪定して、雪吊り雪囲いを入念に済ませたところだそうだ。

 由緒あるご大家にはご大家ならではのご苦労がある。一昨年だったか、大地震を受けて古い土蔵が傾いたことがあった。現代の技術では修復不可能とのことだ。昔の鳶職の技術が継承されていない。
 そのまゝ放置も危険なので、このさい取壊して、新しい倉庫でも建てるかとの噺になったものの、土蔵を副作用なしに解体することも現代の技術では容易でないらしい。むろん大金かけて一流工務店へ依頼して、大型機械による大規模工事でやっつけてしまえばできるのだろうが、昔ながらの職人技術でスマートに省エネ解体することはできぬ相談らしい。

 そんなことがあったうえに、今年は松の巨木だ。なん代前の先祖が植えたものか、云い伝えさえ残されていない。あの家には松があって当りまえと、ご近所のトッツァンもジサマも疑いすらしなかった樹が折れた。やむをえず根まで掘り起して、始末したという。只今現在の当主たる従兄は、さていかなる想いだったろうか。仏壇の前に独り座って、なにを呟いたのだろうか。
 私より年嵩にもかゝわらず身軽で、昔の百姓がもっていた諸芸をかなり継承している従兄のことだ。倒木の始末にも、冬支度の雪吊りにも、みずから梯子に登ったにちがいない。その技や知恵を、子どもたちに伝えてはあるまい。

 百姓は百姓であって、「農業に従事するかたがた」なんぞというフワフワした下品な人間のことはない。大和・奈良の昔から「姓(かばね)」とは職能技術を示す集団分類を指す。さまざまな生活技術を持つから百姓だと、私は云ってきた。むろん私一個のこじつけで、国語学的にはさような語源ではない。念のため。
 年に数度に過ぎないが、従兄からの来簡による近況報告に接するたびに、それに比べて俺ときたら、なんの技術ももってねえなぁと痛感する。せいぜいかまぼこを、美味しくいたゞく。