一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

所沢



 新装成った所沢駅。ふぅん、こうなったのか。改札口が増えたんだぁ。こゝが広くなったんだぁ。おのぼりさんさながらだ。

 「ござ」さんや「よみぃ」さんほか、ストリートピアノ演奏系の著名なユーチューバーがたによる、所沢駅構内の明るい広場での動画をいく度も観て、はてこれはどこなんだろうと想像つかずに過してきたが、やっと解った。
 腕自慢のアマチュア演奏家たちが順番待ちして、次つぎ演奏している。有名演奏家がたによる演奏動画配信の効果は抜群だ。私の愛聴するござさんのチャンネル登録者数は三十万人。よみぃさんにいたっては二百万人である。アマチュア演奏家たちにしてみれば、この場所で腕前を披露してみたい気になって当然だ。
 人気演奏家がたと西武鉄道のウィンウィン関係。背景にはコラボ企画というような、大人事情もあったのかもしれない。

 日大藝術学部の所沢キャンパスに出講していた時分は、週に一度の乗換え駅だった。帰宅時には途中下車もずいぶんした。ついたて状の壁に仕切られて、迂回するように駅外へ出る日々が長らく続いた。学部の授業がすべて江古田本校キャンパスでおこなわれる仕組みになって、週一の習慣が途切れた。新装お披露目の所沢駅へ行ってみたことはなかった。
 今日の目的は東南口だが、まだ時間がある。西北口へ出てみた。お菓子の「まちおか」さんはまだあった。和食の「清元」さんはまだあった。駅の外は、なにごともなかったかのようだ。

 東南口すぐ前のくすのきホールで、年三回催される大規模古書市である。古本屋研究会の学生諸君から連絡をもらって、出掛けた。世間さまとのご縁をほとんどご遠慮申している身であり、読書量も調べ意欲もめっきり減退した昨今、本や資料類をいかに処分するかが、暮しの課題のひとつとなっていて、本屋や古書市を歩くのは要注意である。
 が、若者諸君に語り継ぐべきこともあるかもしれない。なにかお役に立てることもあるかもしれない。まさかネ、とは思いつゝも、出掛ける気になった。本との付合いかたは、座学では駄目だ。現場で、物(ブツ)を前にして語られねば、伝わらない。
 眺めるだけ、けっして買わないからね。玄関扉の鍵を回すとき、復唱して出掛けた。端物安物を、七冊ばかり買ってしまったけれども。

吉田健一『交友録』(新潮社、1974)

 自分の読書傾向からすれば、当然読んでいてしかるべきなのに、これは脱けていた。横光利一福原麟太郎石川淳と、吉田健一がどう付合ったのか、こゝは読んでみるしかあるまい。
 『ヨオロッパの世紀末』(新潮社、1970)を刊行当時たいそう面白く読み、影響も受けたのに、数年後の『交友録』が脱けている。読書傾向なんぞといっても、ずいぶんずさんでお粗末なもんだ。
 当時『ユリイカ』に一年間連載された人物回想記を集めたものらしい。なるほど十二篇並んでいる。
 初出雑誌から稿料を、著作刊行して印税を、文庫化なり全集収録により再録印税をと、ひとつの原稿で三回ないし四回の金を受取れなければ、プロの文筆家とは称べないと、吉田健一はどこかで云ったか書いたかしたそうだ。かつて英文学者の大島一彦さんから伺った。えらく感心した憶えがある。つまり私はついに、プロにはなれなかった。

 さて本日の収穫披露と感想交換ということで、茶話の時間。喫茶店を物色する若者たちの後をついていった。リーダーはスマホで喫茶店情報を検索。なるほど。一軒目はサイゼリア。なにせ日曜日の午後だ。多人数につき適当な空席がない。入口近くにしばらく立って順番待ち。
 店内の壁には、ボッテチェリの『春』『ヴィーナスの誕生』をトリミングした大画面の写真パネルがなん枚も飾られてある。見事なものだ。はて、ところでいかなる意図から、ボッティチェリのこの部分をかように切取って拡大したもんだか。この店にはもう一度、来てみてもよろしいかとの気が湧いた。それとも、どこのサイゼリアでも、同じパネルが飾られてあるのだろうか。知らない。
 それにしても、矢代幸雄『サンドロ・ボッティチェルリ』(高階秀爾ほか訳)は、生きてるうちにもう一度読み返したい本のリストに入ったまゝ、手を着けられずにある。気が重くなることを思い出しちまった。

 待ちくたびれて、業を煮やしたリーダーの指示でその場を切上げ、ガストへ移動。やっと一息ついた。思い想いの飲物を整えたあと、ミーティング。各人各様の基準で、とうてい私の眼になんぞ着かぬ本を、リュックやショルダーバッグから出してくる。当然ながら、ついつい私が入手してしまった七冊なんぞは、若者たちにとっては、ナニソレものである。


 ひと渡り披露タイムが済んだころ、けっしてこれが最良とも思えぬし真似しろなどとは毛頭思わぬがと前置きして、参考までに私の習慣を披露した。
 帯をかけたまゝ本を所蔵すると、年月が経つうちに、擦り切れたり脱色したりして、帯だけが傷んだり切れたりする。それを防ぐために、帯を後見返しに跨らせておく。栞のようにページ中に挟んでいる人も視かけるが、運搬のさなかに脱け落ちる危険性もないではない。長年あれこれ試みたあげくに定着した、わが習慣のひとつである。
 と話していて出品者シールに眼が行った。会場では気にも止めなかったが、この商品を出品したのは、吉祥寺の藤井書店さんだ。つい先日、同じ顔触れで吉祥寺界隈の古書店を散策して歩いたさいに、立寄ったばかりの店である。本というものは、どんな機会にどんなはずみで、私のもとへやってくるか、判ったものではない。