一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

なにか?

兵站より兵糧届く。

 昨日に引続き実弾! 米だ、蕎麦だ、餅だ、きなこまで付いてる。

 明朗純朴な人柄で、親戚中だれからも気に入られた従弟については、以前に書いた。惜しみても余りあることに、短命だった。夫人と長男長女の三人ご家族が残された。幸いご長男ご長女とも頑張り屋さんで、実直なお人柄の夫人ともども、手堅いお暮しをなさっている。
 系図的に申せば、わが母もその兄たる伯父も、その息子たる従弟もすでに亡く、血縁遠いご一家だ。互いの住いや生活圏も遠く、職業的にも接点はない。が、ご縁は途切れずにある。ご一家のお人柄であり、亡き従弟の遺徳としか申しようがない。
 独居老人の自炊暮しを察してくださって、けっして無駄にならぬ農協商品(私は JA なる呼称がどうしても好きになれない)をご恵贈くださる。これ以上に郷里新潟県を象徴する贈り物があろうか。ありがたい。

 その昔伯父は、小学生だった私に向って、こんなふうに語り聞かせてくれた。
 ―― 新潟の表土は水はけが良く、それでいて深層には粘土層がある。水が逃げてゆかないし、溜り過ぎた水は脇へと流れてゆく。田を造るにうってつけの土壌だったから、米どころ酒どころになった。
 ―― そこへゆくとお隣の長野県は急峻な傾斜地が多く、土壌も米作りに最適とは云いがたかった。だから麦も試した。蕎麦も試した。果樹も野菜も試した。創意工夫しなければ生きてゆけなかった。おかげで林檎や蕎麦や薬用人参や山葵が残った。教育にも熱心だったし、作家や詩人も多数輩出した。
 ―― オラチのほうはのぉ、辛抱して我慢してサ、米さえ造ってれば、なーんとか生きてこれたさけのぉ。理屈云わんで、我慢ばーっかすんだて。
 けっしてお国自慢でなく、むしろ隣国長野の県民性と歴史への敬意を露わにした云いかただった。子ども心に感動する点があったものか、私はその場面だけを妙に記憶している。

 最近こんなテレビ番組を観た。一部分をユーチューブ動画で観ただけだけれども。
 リポーターによる紹介。江戸時代、長野から他県へとお国替えになった殿様は、藩内の優秀な蕎麦職人を連れて移動していった。いかに蕎麦が重要視されていたことか。こうして蕎麦文化と技術は、全国に広まっていった。
 女性アナウンサー。スゴイですねぇ。それほどお蕎麦が愛されていたってことですよねぇ。
 アノネ……。蕎麦栽培と蕎麦打ちの技術とは、畏れながらさような趣味道楽ではなかったと思いますヨ。山国の飢餓を救ってくれた蕎麦の、栽培や製法を発明発展させてくれたほどの技術者なら、次なる地の次なる状況下でも、かならずやその地の材料から新たな創意工夫をしてくれるに違いないと思えばこそ、殿様は同道を求めたのだと思いますヨ。蕎麦も広まったかもしれませんが、新たなる開発もあったことでしょうよ。藩民が飢えないための。

 毎日を小さく小さく過していると、歴史は偉人豪傑の勇断によって創られたとの考えから、どんどん遠ざかってゆく。天文学的数字の民草による生存意欲の総体以外には、歴史を創るなんてことができるはずがない。ましてやなんの取柄もなき自分ごときにできることなんぞがと、途方もない無力感に襲われて、なにもかも放棄してしまいたくなる。
 そしてまた、気をとり直して、机に向う。インタホンが鳴る。宅配便だ。親戚から兵糧の援助が届いた。はい、新潟ですけど、なにか?