一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

レパートリー


 さて、試食である。

 仕込んだ翌日はまだ、これでほんとうに馴染むのだろうか、浸み込むのだろうかという様相だった。丸二日経ってみたら、驚くほど馴染んで、視た眼も変化してきた。トロントロンという感じだ。わが新デザートとなりうるかいなか。ガラス器にとって試食。
 自画自賛申す。蜜柑とは、ほんらいかように食すべきものではなかったのか。私には分不相応なほど豪華なデザートとなっている。皮が重要だ。マーマレードのごとくに、皮の軽い渋みというか苦味というかが、味になった。歯応えも申し分ない。

 いただいた蜜柑の半分を、蜂蜜に浸けてみたのだった。味を想像して、少々砂糖を差した。
 残り半分の蜜柑は、普通に皮を剥いて、生でいただくつもりでいた。が、方針変更。第二陣を仕込もうと即決した。
 あまりに身近過ぎて、日ごろ自分で買ってみることもしない蜜柑だが、つねにこの味が出せるのであれば、レギュラー甘味食品として、間食としてもデザートとしても有力だ。あとは茹で小豆缶詰と、コスト比較してみてどうかという問題だ。慎重に計算してみる価値がありそうだ。すなわち新しい課題の出現である。

 大北君より拝領の里芋はすべて腹におさまった。あとまだじゃが芋がある。今回の相棒は、生椎茸と変り雁もどき。小玉の変り雁もどきが四種類もひと舟に寄せられて、安売りされていたので、試してみた。
 ヒジキを炊く場合や里芋の煮っころがす場合よりは、醤油が必要だろう。図体もでかいし、具の量も多い。けれどいわゆる甘辛、俗に「白いご飯が欲しくなる」味にしてしまうのは、老人食としていかがか。
 やはり醤油加減は少々手前にしておく。その補完として生姜の薄切りを常識加減より多くして、鷹の爪を一個、鋏で細かく切りながら鍋に投じた。これらも大北農園からやって来た連中だ。よく仕事してくれた。薄塩にして、生姜の味も鷹の爪の味も残った。米抜きで、じゃが芋を主食のごとくムシャムシャ食べても行けるくらいだ。まさかさようなことはしないけれども。
 いただいたじゃが芋を三分割に使って、今日が二回目。まだ残っている。最終回をどのようにいただくか。愉しみではある。

 数日前の忘年会で、旧知の仲間から批評された。「一朴洞日記」にはほんの少しの面白いことと、かなりの量のどうでも好いようなこととが書いてあると。彼の気性から、いかなる記事を面白いと、またどうでも好いと云いたいのかは、おおよそ想像がつく。彼の感想としてはもっとも至極だ。
 しかし私の意図は、いやここは巨きく出よう、わが志は、彼がどうでも好いと感じるような、まさにさようなことをこそ書きたいという点にある。芸術だろうが哲学だろうが、思索の具体性は日常些事のうちにある。いや、そこにしかない。
 蜜柑の食いかたやじゃが芋の食いかたに一歩眼が啓けたのであれば、それは私のなにかが啓けたのだ。私にとって、あながち小さいことでもない。すんなりご同意くださるかたもおられようが、諄々とご説明申しあげたところでご理解願えぬかたもおられよう。難儀である。